日本大百科全書(ニッポニカ) 「グラナダ」の意味・わかりやすい解説
グラナダ(スペイン)
ぐらなだ
Granada
スペイン南部、アンダルシア地方、グラナダ県の県都。シエラ・ネバダ山脈の北西麓(ろく)、標高685メートルの地にあり、グアダルキビル川支流ダロ川に臨む。人口24万0661(2001)。市街は三つの丘の斜面に広がる。イスラム時代の末期にはグラナダ王国の首都で、イスラム教徒の支配が長く続いたためその影響が色濃く残る。有名なアルハンブラ宮殿、1531年創設の大学、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の墓がある大聖堂などのほか、歴史的建造物が多く、観光地となっている。平均気温は1月7.0℃、7月25.7℃、年15.5℃であるが、スペインの中では冬は寒い地方とされる。年降水量は529ミリメートルで乾燥している。イスラム時代に施された灌漑(かんがい)施設が維持・改善され、これを利用して付近の農地では果物、野菜、穀物などが豊富に生産されている。ぶどう酒、オリーブ油などの食品工業のほかに、織物、製紙工業がある。
[田辺 裕・滝沢由美子]
歴史
起源はローマ期以前の集落イリベリスにさかのぼるが、直接今日のグラナダ市につながるものは8世紀に築かれた砦(とりで)のガルナータで、イスラム期を通じてしだいに重要な都市に成長した。13世紀前半、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)によってアル・アンダルス(イスラム教スペイン)の大部分が占領されたなかで、ムハンマド・ベン・ナスルがここにグラナダ王国(ナスル朝)を建てた。以後、約250年間、グラナダはイベリア・イスラム文化の最後の中心となる一方、北アフリカとの交易や国内産業の発展によって相当な繁栄をみた。ナスル朝の宮殿兼要塞(ようさい)であったアルハンブラは、歴代諸王の文芸愛好と盛んな経済活動の融合の所産である。
[小林一宏]
グラナダ(Fray Luis de Granada)
ぐらなだ
Fray Luis de Granada
(1504―1588)
スペインの宗教作家。俗名はルイス・デ・サリアLuis de Sarriaで、ガリシア地方出の貧しい家庭の子としてグラナダに生まれる。21歳のとき、母が洗濯女として働いていたドミニコ会修道院に入り、同会の要職をいくつか務めたあと、ポルトガルの管区長となり、リスボンで死去。キケロやクィンティリアヌスQuintilianus(35ころ―100ころ)の流れをくむ修辞色の濃い修徳書を書いたが、また同時に繊細な情感も持ち合わせており、スコラ的厳格さを旨とするドミニコ会よりも、むしろアウグスティヌス会やフランシスコ会的な作風をもっている。作品に『祈りと黙想の書』(1554)、『罪人の手引き』(1556)などがあり、後者は日本でも『ぎやどぺかどる』の名で1599年(慶長4)に抄訳された。
[佐々木孝 2017年11月17日]
『『覆刻日本古典全集 ぎやどぺかどる・妙貞問答・破提宇子・顯偽録』(1978・現代思潮社)』