デンマークの天文学者。望遠鏡出現以前の最大の観測者。南デンマークのクヌドストラップのヘルシングボル城主の長男に生まれ、政治家修業のため1559年コペンハーゲン大学に入学、1562年ライプツィヒ大学法科へ転学。以後1571年父の死去までドイツ諸大学に遊学。その間天体観測に興味をもち、1560年部分日食、1563年木星と土星との会合、1566年皆既月食を観察。1572年カシオペヤ座超新星(ティコの星)を発見、その光度変化を継続観測するに及んで、恒星界の活動性に感動し、翌年著作『新星』によって天文学者としての名声を高めた。1574年国王フレゼリク2世Frederick Ⅱ(1534―1588)の命でコペンハーゲン大学で講演し、宇宙の壮美性、天文学の実用性、占星術の信頼性を強調した。1576年王室費により、ティコのためにベーン島にウラニボル天文台が設立され、ティコは測角両脚器(脚長1.6メートル)、方位四分儀(経緯儀原型)、壁面四分儀(半径3メートル、子午儀原型)などを考案設置し、当代随一の豪壮精微を誇るこの天文台を主宰した。ティコの天文台建設の目的は、器械の大型化による測定値の精密化、観測の常務制による変動の継続追究にあった。もとより望遠鏡発明以前の観測には精度の限界があったが、ティコのそれは肉眼の分解能一分角に達していた。その成果として、月の運動の不等(中心差、出差、二均差、年差)、月の視半径、黄道傾斜、大気差の影響、彗星(すいせい)の視差などの数値を更新した。しかしその技能の及ばない現象があった。それはコペルニクスが示唆した恒星の年周視差(最大値0.76秒角)であって、ティコはこれを検出できなかったばかりに、1588年地動説と天動説との折衷説(太陽は諸惑星を従えつつ、地球の周囲を公転)を主張した。この失敗は機能の吟味をせず、自力を過信したことによる。
1588年国王の死後、生来の一徹さが宮廷の儀礼になじまず、1596年新王クリスティアン4世Christian Ⅳ(1577―1648)のもとで年金差し止め、資財没収されてドイツに亡命した。皇帝ルードルフ2世は彼を宮廷数学官に任じ、プラハ郊外のペナテク城を観測所として与えた。1600年、同じ追放の身の数学教師ケプラーの請願を受け、勅許庇護(ひご)のもとで師弟の共同研究が始まり、新天文学への貴重な結び目となった。しかしそれも1年半にすぎず、ティコは病没した。彼が亡命の際帯出した約20年間にわたる火星の追跡観測記録は、その視位置と視光度の豊富な記録により、彼の最大の業績となり、これがケプラーの手によって整理研究され、「惑星公転の三法則」発見の基礎資料となった。
[島村福太郎]
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