青山忠成(読み)あおやまただなり

改訂新版 世界大百科事典 「青山忠成」の意味・わかりやすい解説

青山忠成 (あおやまただなり)
生没年:1551-1613(天文20-慶長18)

江戸初期の幕府重臣。通称藤右衛門。常陸介。青山氏の宗家。幼少より徳川家康近侍,武田氏との合戦軍功があった。1580年(天正8)家康の嫡子秀忠の傅(もり)とされ,家老的な存在となる。関東入部時,知行割などの奉行を務め,のち江戸の町政執行町奉行)と〈関東の奉行職〉(関東総奉行)を兼任した。一時,蟄居したがのち許され2万8000石を領した。
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朝日日本歴史人物事典 「青山忠成」の解説

青山忠成

没年:慶長18.2.28(1613.4.18)
生年天文20(1551)
江戸初期の大名。播磨守。幼少から徳川家康に小姓として仕えたが,徳川秀忠が誕生した翌年天正8(1580)年からは秀忠に補導役として付属。18年の徳川氏関東入国の際には,先発して諸事沙汰すべきを命じられ,昼夜兼行で家臣団の知行割に当たった。慶長6(1601)年1万8000石の大名となり,この年本多正信,内藤清成と共に関東総奉行に任命され,関東領国経営に当たり手腕を発揮した。ところが,11年家康の放鷹の際,取鳥用の縄が打ち捨てられており,家康の機嫌を損じた。これが秀忠の耳に入りせんさくしたところ忠成,清成の許すところであったという。両名は重罪となるべきところを,正信の取り成しにより蟄居ですんだとされる。

(小池進)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青山忠成」の解説

青山忠成 あおやま-ただなり

1551-1613 織豊-江戸時代前期の武将
天文(てんぶん)20年8月6日生まれ。青山忠門(ただかど)の子。徳川家康につかえ,秀忠の側近となる。文禄(ぶんろく)元年本多正信,内藤清成とともに関東総奉行となり,のち江戸町奉行を兼務した。慶長11年家康の勘気にふれ一時蟄居(ちっきょ)。相模(さがみ)などに2万8000石を領した。慶長18年2月20日死去。63歳。三河(愛知県)出身。通称は藤右衛門。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「青山忠成」の解説

青山忠成 (あおやまただなり)

生年月日:1551年8月6日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名;関東総奉行
1613年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の青山忠成の言及

【青山氏】より

…三河出身の江戸時代の譜代大名。南北朝内乱のころ,三河に来て徳川氏の宗祖松平親氏に仕えた岩津譜代の家筋といわれるが不明な点がある。青山氏の三河譜代の部将としての活躍がみえるのは,史料上,家康の父広忠に仕えた忠門(ただかど)のときである。忠門は広忠死後,家康に近侍し,三河一向一揆などに戦功あり,元亀年代(1570‐73)には武田氏の岡崎侵攻にさいし,代々の領地百々(どうどう)村を要塞化して岡崎城防衛の任を果たした。…

【関東総奉行】より

…1592年(文禄1)関東領国支配のため設けられた関東庶務奉行を濫觴(らんしよう)とし,1601年(慶長6)にこれを整備して成立した。奉行には青山忠成,内藤清成,本多正信を任命し,青山,内藤には与力,同心が付属した。支配領域は関東農村から江戸市中に及び,旗本,代官も規制した。…

※「青山忠成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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