[現在地名]徳山市大字
須々万本郷・大字
須々万奥 緑山(六一三・八メートル)を中心にした大村で、緑山北側から東側を流れる錦川北方の山間集落が須々万奥、緑山南方で、錦川の支流須々万川流域の小盆地やその周辺部の山地に点在する集落が須々万本郷。北は須万、東は中須、西は長穂、南は下谷(現下松市)、譲羽・徳山の各村に囲まれる。萩藩領で都濃宰判に属した。
村内の飛竜八幡宮の所蔵文書(「注進案」所収)の長禄三年(一四五九)正月二二日付に「須々万宮典楽次第」「須々万八幡宮歩射役事」などとあり、須々万の名がみえる。伊勢神宮の御師が祓札を配った折の付立である中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「すゝまのとくわう丸助左衛門殿」「すゝまの勝やわかさ殿」とあるが、得王丸の名はすでに長禄三年の八幡宮文書にもみえている。
弘治元年(一五五五)毛利元就と厳島に戦って敗れた陶方はあちこちで滅びたが、重臣江良賢宣や伊香賀左衛門は須々万にあった沼城で毛利勢と一戦を交えている(棚守房顕手記、足利季世記)。その折の小早川隆景の感状が「閥閲録」に収録される。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳には須々万郷として総高一千七〇八石二斗、同一五年の検地帳では須々万として三千四八五石余を記す。田方は二四〇町余で二千九四九石余、畠方は一二七町余で三六六石余、百姓屋敷三二〇。
毛利輝元が元和三年(一六一七)次男就隆に分知した領知目録には、須々万村三千五八石八斗一升四合とみえるが、同七年には本藩に返して替地を受領している(毛利家文書)。