須佐村(読み)すさむら

日本歴史地名大系 「須佐村」の解説

須佐村
すさむら

[現在地名]須佐町大字須佐、田万川たまがわ町大字江崎えさき 江津えづ尾浦おうら

阿武郡の北端にある大村。北半は日本海に突出した半島部で、その中央部にこう山がそびえ、西南に須佐湾、東に江崎湾が広がる。南部は山間部に集落が点在し、中央を須佐川が北流して須佐湾に注ぐ。南は惣郷そうごう(現阿武町)弥富やどみ村。奥阿武宰判に属した。

地名の由来を「注進案」は「孝徳天皇の大化六年豊前国宇佐八幡宮を海辺松ケ崎といふ所に勧請し奉るとぞ、宇佐の宮より勧請しける八幡宮御鎮座の地なる故に所の名をしも宇佐といふ宇佐須佐五音横通によりて須佐と改めしとぞ」とし、さらに「また出雲の国千家清主せんげきよぬしのいへらく、須佐とはもと須佐之男命によしあるべきをや」と記す。

中世には須佐郷とよばれ、文和元年(一三五二)八月一三日付の大井おおい八幡宮(現萩市)の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」に、左座の二番として「須佐郷」が記される。また同じ日付の「御祭礼諸郷鼓頭出仕座配本帳事」では右座の二番として郷名が記される。

また当地は天文―元亀(一五三二―七三)頃までは石見国津和野つわの(現島根県鹿足郡津和野町)の城主吉見氏の領地であったという。慶長六年(一六〇一)石見益田ますだ(現島根県益田市)の城主益田元祥が当地に移り、近世を通して須佐村を領有した。益田越中家文書(「閥閲録」所収)の寛永二年(一六二五)八月一三日付「秀就公御印形 御配所附立」によれば、元祥の孫元尭の時には須佐村に一千六六七石八斗四升二合の知行高があった。

慶長一五年の検地帳は須佐郷として総石高二千二五八石余、うち田は一五四町余で高一千八五二石余、畠は二三町余で高八九石余、百姓屋敷数三四六、市屋敷数一〇六、浦屋敷数七七で、ほかに小物成九石余、浦浮役一二二石余とあり、地方と浦方に分れていた。


須佐村
すさむら

[現在地名]南知多町豊浜とよはま

中須なかず村の東にある。「寛文覚書」によれば、概高一千七四九石余、田地四〇町三反八畝余、畑地一〇六町六反三畝余、戸数三七七、人口七六七。平田船一一艘があり、舟役御用の時舟と水主を出す。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。「徇行記」によれば、千賀志摩の給知一千三三石余、蔵入高七一五石余。支郷初神はじかみ入江に流入する百々どど川の上流沿いある。椒江とはしようがを産したゆえといい、天保の村絵図には初神と記す。本郷須佐は前に須佐の入江を抱き民家は南から北東に建並び百々川鳥居とりい川・高浜谷たかはまだに川がある。運漕業者があり、二〇―九〇石積のいさば船五艘があり、薪その他の商品を運ぶ。小船は七艘。富家一―二のほか「小百姓多キ所ナリ」、支郷小佐おざは須佐の東の山を越え浜辺の谷間にあって小佐谷ともいう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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