須佐郷(読み)すさごう

日本歴史地名大系 「須佐郷」の解説

須佐郷
すさごう

現在の簸川ひかわ佐田さだ町から飯石郡掛合かけや町の南部と頓原とんばら町の西部にかけて所在した国衙領。「出雲国風土記」にみえる飯石郡須佐郷と波多はた郷を統合するかたちで成立した中世の所領。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の流鏑馬一五番に多禰上たねかみ郷と恒松つねまつ(現出雲市)と並んで須佐郷がみえ、同注進状の相撲一〇番にも当郷がみえる。一方、建久五年(一一九四)三月日の出雲国在庁官人等解状写(出雲国造系譜考)裏書によると、在庁官人出雲忠康が須佐郷司であったと記される。鎌倉初期には杵築大社の国造出雲氏の一族が郷司であったが、文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一四番には「須佐郷三十丁三反小同人」とみえる。同人と記される地頭の相撲衆は「相模殿」の誤写で、時の執権北条時宗が地頭であり、当郷は得宗領であった。承久三年(一二二一)の承久の乱により出雲氏の所帯が没収され、得宗領となったのであろう。

建武四年(一三三七)一二月一二日足利尊氏が当郷地頭職を山城石清水いわしみず八幡宮に寄進している(「足利尊氏寄進状」石清水八幡宮文書)。得宗領が建武政権により没収され、南朝方に与えられていたのが、南北朝の分立のなかで尊氏により寄進されたのだろう。また貞和三年(一三四七)には須佐郷が八幡宮領であるとして、杵築大社三月会頭役を対捍している(同年三月一九日「室町幕府御教書」出雲大社文書)

須佐郷
すさごう

和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、スサであろう。「出雲国風土記」によれば飯石郡七郷の一つで、郡家の西一九里に郷長の家があり、地名は神須佐能袁命が「此の国は、小き国なれども国処なり。故、我が御名は、木石に著けじ」といい、その御魂を鎮め置き、大須佐田・小須佐田を定めたことに由来する。正倉が置かれていた。須佐径には常設ではないがが置かれていた。同書にあげる須佐川は琴引ことひき山より発し、来島きじま郷・波多はた郷および当郷を流れて神門かんど郡に入るとあり、年魚がとれた。現在の神戸かんど川上流の来島川であろう。

須佐郷
すさごう

「和名抄」高山寺本になく、東急本に「須佐」とみえるが訓を欠く。「延喜式」に有田郡唯一の式内社須佐神社が記されることから、その付近に比定することには「続風土記」以来異論はない。しかし範囲に関しては「続風土記」は英多あた郷を山保田やまのやすだ(現清水町)に比定した関係上、保田庄宮崎みやざき庄のほか宮原みやはら庄・糸我いとが(以上現有田市)を含めるが、「有田郡誌」は保田村・箕島みのしま(現有田市)とし、「有田市誌」もほぼ継承している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報