須加庄(読み)すかのしよう

日本歴史地名大系 「須加庄」の解説

須加庄
すかのしよう

射水いみず郡に位置した古代の奈良東大寺領庄園。須賀庄とも表記する。成立は、同郡ではこてだ鳴戸なると鹿田かだの各庄とともに天平勝宝元年(七四九)のことで、聖武天皇の発した四月の寺院墾田地許可令に基づき野地を占有した結果である。庄名の須加は全国的にも珍しく、「和名抄」によると、下総国匝瑳そうさ郡に須加郷がみられるのみである。越中国の場合、天平宝字三年(七五九)一一月一四日の射水郡須加開田地図(正倉院蔵)の端書部に須加野地、同日付の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)に須加村地とみえ、また前者の地図では、須加庄の北に須加山北東に須加上里が知られる。須加山はすでに「万葉集」巻一七に、大伴家持が天平一九年(七四七)九月二六日に詠んだ歌のなかにもみえる。

当庄の田積は、天平宝字三年の地図によると総地三五町一段二二四歩、開田二八町五段三一四歩、未開六町五段二七〇歩とあり、開田率の高い様子がわかる。これは庄内の中央部を灌漑用水である溝が南北に通じ、水利条件が整備されていたことと深く関係する。庄地は七条世岐せき(七条塞里)桑田くわた里、八条下大葦原しもおおあしはら里・須加上里の内に展開し、このうち開田は世岐里(一六町七段一一四歩)桑田(七町五段)を中心に広がり、域内七ヵ所には公田が分布していた。条里内の坪名には、世岐里に被田・神田・桑田・馬背田、桑田里に葦原田・被田、下大葦原里に被田・葦原田、須加上里に被田がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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