日本歴史地名大系 「飯盛山城跡」の解説 飯盛山城跡いいもりやまじようあと 愛知県:東加茂郡足助町足助村飯盛山城跡[現在地名]足助町足助 飯盛飯盛山頂にある。街道からの比高一三一メートル、南と西に巴(ともえ)川の流れをめぐらす要害の地である。ゴホンジョウヤマとも呼称されていた。足助地籍の大観音(だいかんのん)城・城山(しろやま)城・真弓山(まゆみやま)城・臼木(うすき)ヶ峯(ね)城、寺沢の成瀬(てらさわのなるせ)城、近岡(ちかおか)の黍生(きびゆう)城とともに足助七屋敷と称され、その本城とされている。城塁は山頂を二段に分けて平らに削っており、頂上の平は約四アール、二段目の平は約六アールある。この下の東西にもそれぞれ約一アールの小郭を設け、この二つの郭を北側にある幅約一―三メートルの曲輪でつないでいる。 飯盛山城跡いいもりやまじようあと 和歌山県:那賀郡那賀町中村飯盛山城跡[現在地名]那賀町麻生津中飯盛山(七四五・七メートル)山頂に残る城跡で、方一六メートルの曲輪を中にして、二メートル下方に幅六メートルの腰曲輪が囲んでおり、この二曲輪を囲んで幅四メートルの空堀がある。「太平記」巻一二(安鎮国家法事)に「元弘三年春の比(中略)河内国ノ賊徒等、佐々目憲法僧正ト云ケル者ヲ取立テ、飯盛山ニ城郭ヲゾ構ケル」とあり、「元弘日記裏書」には「建武元年十月、高時(北条)一族、於紀伊国飯盛山構城柵、正成(楠木)有殊功」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by