三河国(読み)ミカワノクニ

デジタル大辞泉 「三河国」の意味・読み・例文・類語

みかわ‐の‐くに〔みかは‐〕【三河国】

三河

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日本歴史地名大系 「三河国」の解説

三河国
みかわのくに

東は遠江、西は尾張、北は美濃・信濃、南は海に至る東西およそ一一六里、南北およそ一一七里(日本地誌提要)の国で、参河(新撰姓氏録、万葉集)、三川(旧事本紀)、三河(日本書紀、令義解)、参川(続日本紀)とも記す。

はじめは三河・の二国に分れ、これが三河一国に統合されたのは大化(六四五―六五〇)頃という。碧海あおみ額田ぬかた加茂かも幡豆はずの四郡すなわち西三河の地域は古く三河国とよばれ、宝飫ほお渥美あつみ八名やなの三郡すなわち東三河の地域は、古くは穂国とよばれていた。穂の名は、東三河地域の各方面より望まれる印象的な山、現在の本宮ほんぐう山より生じた名称と思われ、穂国の名は郡名にひきつがれ、宝飫の二字に書き、さらに宝飯郡となったものと考えられている。

三河の原義は、おと川・豊川・矢作川の三大河のあることによるとする「古事記伝」「三河国風土記」などの所説は誤りであろう。内山真竜が賀茂御川によるとするのも、太田亮が「美河・御河」とするのも認めがたい。三河は「水河」の意で、西三河を貫流する矢作川に基づくものと推定される。

古代

〔成立〕

「旧事本紀」によると、三河は古くは三河と穂との二国に分れ、各々国造が支配していた。同書国造本紀によれば成務天皇時代に物部連の祖出雲醜の五世の孫知波夜命が三河国造に、雄略天皇の時代に生江臣の祖葛城襲津彦の五世の孫菟上足尼が穂国造に定められたという。三河国造は額田郡謁播あちわ(現岡崎市)辺りがその治所として想定される。また大古墳の所在からみて、三河国造は、安城市桜井さくらい町の二子ふたご古墳の被葬者ともつながる。穂国にあっては、豊川流域または音羽おとわ川流域と、のちの宝飯郡のうちがその治所として想定される。五世紀末から六世紀初めにかけて築造された東三河第一の前方後円墳船山ふなやま古墳(現豊川市)のほか国造級の古墳が各地にみられるところから、穂国にあっては支配者の交代と治所の異なることが推測される。

国造支配の成立は、早くとも五世紀末から六世紀のことであろうが、国造の下にはいくつかの県が置かれ、県主あるいは県稲置といわれる小地域の支配者がいた。三河には、尾張と異なって県の所在を示す史料はない。しかし「古事記」や「旧事本紀」に多数あらわれる天皇の末裔と考えられる諸氏は、ある時期の地方の状況を反映したものであるとすれば、三川蘊連、三川三保君(伊保君か)、三川御使連、御立史などはこのような県主の実在の反映とも思われる。

大宝元年(七〇一)に大宝令が作成施行され、中央・地方の行政制度は整った。

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改訂新版 世界大百科事典 「三河国」の意味・わかりやすい解説

三河国 (みかわのくに)

旧国名。参河とも書く。三(参)州。現在の愛知県東部。

東海道に属する上国(《延喜式》)。大化以前,東三河に穂国(ほのくに)があり,穂国造の本拠は宝飯(ほい)郡にあった。郡名は穂国に由来する宝飫(ほお)の転化したものである。西三河は三河国造の統治下にあり,その本拠は二子古墳を中心に古墳群を形成する現在の安城市桜井町地域であろう。大化改新以降,三河・穂両国造の領域を合わせて三河国を建て,国府を穂国の内,現豊川市白鳥町に置き,音羽川下流の御津(みと)(現豊川市,旧御津町)の地がその外港とされた。

 郡は,初め碧海(あおみ),賀茂,額田(ぬかた),幡豆(はず),宝飫,八名(やな),渥美(あつみ)の7郡で,903年(延喜3)宝飫郡の北東部を割いて設楽(したら)郡を設け8郡とした。郷は《和名抄》によると碧海15,賀茂8,額田7,幡豆8,宝飫12,八名7,渥美6,設楽4の合計67(駅家郷3を除く)であるが,奈良時代前期の状況を伝える《律書残篇》では郷数67,里数203とあり,8~9世紀を通じて郷数はあまり変化しなかった。駅家は鳥捕・山綱(現,岡崎市),渡津(わたつ)(現豊川市,旧小坂井町)の3駅,駅馬は各10疋で,伝馬は碧海,宝飫の両郡に各5疋が配備された。官船は矢作(やはぎ)河,飽海(あくみ)河(豊川)に備えられ,835年(承和2)に従前の各2艘を各4艘に増加させた。水田は905年(延喜5)の太政官符に〈田地狭小,山野曠遠〉と評されるように少なく,《和名抄》によると10世紀段階の公田面積は6820町余,平安後期の公田面積を示す《拾芥抄(しゆうがいしよう)》でも7054町であった。《延喜式》によると三河の調として定額の羅,綾,犬頭白糸や海産物を指定しているが,その他の大部分はすべて白絹を輸す定めであった。これは他の絹,絁(あしぎぬ)を出す国と大きく異なる。三河は上糸国で,調の犬頭白糸は雪のように白く光沢があり,天皇の服御に供せられた。760年(天平宝字4)ごろの《正倉院文書》によると,三河産の白絁は13ヵ国中最も高価であった。古代に建てられた荘園としては西三河に志貴荘,碧海荘,吉良荘,高橋荘,東三河に小野田荘,竹谷荘,蒲形荘などが知られる。東三河には伊勢神宮の力が強く,1192年(建久3)以前に神宮領として本神戸,新神戸,新封戸のほか橋良御厨(はしらのみくりや)など9所の御厨,御園が建てられている。
執筆者:

1184年(元暦1)3月に源頼朝の弟範頼は三河の国司に任ぜられ,93年(建久4)まで在任したらしい。これは貴族としての頼朝に知行国の一つとして三河が与えられたことを示しており,1184年の時点で三河が鎌倉政権の支配下に入っていた証拠である。85年(文治1)の守護地頭設置により,初代守護には幕府創業の重臣安達盛長が任じられ,少なくとも99年(正治1)までは在職した。七御堂建立のような安達氏にまつわる伝承が東三河に多いのは,守護所が国府の近辺に所在したからかもしれない。99年に幕府が伊勢神宮領6ヵ所の地頭停止を命じていることから,源平動乱期に平氏方で所職を没収された者もあったと推定されるが,詳細は不明である。加茂郡高橋荘地頭には尾張守護小野成綱(なりつな)が任ぜられた。承久の乱は三河にも大きな変動をもたらした。頼朝の甥にあたる足利義氏が三河守護,額田・設楽2郡と吉良荘・碧海荘地頭,中条家長が尾張守護・高橋荘地頭,二階堂元行が重原荘地頭となっている。これは西三河において小野盛綱,足助(あすけ)重成らのほかにも多くの院方武士があり,その没収地が新しく有功の御家人に給与されたからである。安達氏の守護解任の理由は不明であるが,13世紀後葉まで渥美郡内で地頭職を保持していた。

 足利氏は義氏より尊氏までの5代約100年間守護職を世襲し,碧海郡矢作(現,岡崎市)に守護所と家政機関の額田郡公文所を置き,一族,被官に所領を分与した。義氏の庶長子長氏は吉良荘,その次男国氏は同荘今川,義氏の孫公深は一色,再従兄弟の実国は額田郡仁木,義季は同細川に分立して,それぞれ名字の地とした。高,板倉,伊勢,倉持,粟生(あおう),設楽ら新旧の被官も,2郡の内で所領を給付された。この一族,被官が尊氏の政権獲得の基盤となったのであり,やがて室町幕府の要職を占めて三河を離れていった。南北朝内乱の初期,吉良氏,足助氏が南朝方であったが,吉良氏はやがて幕府に降伏し,足助氏は没落した。観応の擾乱(かんのうのじようらん)では額田郡の足利氏被官21人が直義方についたことがあったが,大きな勢力にはならなかった。

 室町期の三河守護は,観応の擾乱までは高(こう)氏一族,1360年(正平15・延文5)までは仁木義長,77年(天授3・永和3)まで新田義高,以後一色範光から4代約70年が一色氏であった。守護代は仁木氏では西郷氏,一色氏では小笠原,石川氏が知られる。しかし守護領国化はさほど進展をみなかった。それは西三河には前代以来の足利氏領が将軍料所として残り,また守護不入を認められた吉良,中条,設楽,進士ら奉公衆40氏の所領が散在していたためとみられる。もっとも奉公衆も守護と同じく在京奉公が原則のため,在地支配力は強くなかった。一番衆番頭で奉公衆中の〈分限者〉と称された中条氏は,1432年(永享4)に将軍義教から所領没収と詮秀切腹の処分をうけ,8年後に許されるが,15世紀後葉からは鈴木,三宅,那須ら被官衆の勢力が伸張した。将軍一門として天皇警護の〈武者がしら〉を世襲した吉良氏嫡流西条家は,庶流東条家を代官としていたが,被官衆の統制力は弱体であった。1440年一色義貫が誅殺され,守護職は細川持常,成之に伝えられるが,78年(文明10)以後守護在職の徴証は見当たらなくなる。ほかに15世紀中葉には幕府政所執事伊勢氏の被官として,御料所支配に関与した松平信光戸田宗光が勢力を伸張していた。

 応仁の乱の際,三河においては守護細川氏と中条,松平,戸田氏の東軍対前守護一色氏と被官水野氏で戦われたらしいが,守護,奉公衆はしだいに没落し,新興の国人領主層が所領を拡大していく。岩津を本拠に岡崎,安城を支配下に収めた松平氏,田原を奪取した戸田氏,刈谷に入った水野氏,牛久保,吉田を領した旧一色氏被官牧野氏,東三河山間部の山家三方衆(田峯と長篠の菅沼氏,作手(つくで)の奥平氏)らである。しかし16世紀前葉に駿遠守護今川氏の勢威が強くなると,東三河諸氏は今川氏の被官化していった。3代信光が西三河の3分の1を支配したという松平氏の6代松平清康は,1530年代前半に三河一国をほぼ服属させ,さらに尾張進出を図ったが,35年(天文4)12月に尾張国守山で家臣に殺された。清康死後,後退した松平氏に代わって今川義元が三河に勢力を伸ばし,46年には田原戸田氏を滅ぼし,49年には広忠死後の松平領国を併呑して,一国支配を実現した。義元は三河諸将を駿府に出仕させ,2度にわたって検地を行うなど大名領国の支配体制を確立していった。
執筆者:

1560年(永禄3)桶狭間の戦で今川義元が戦死すると,今川氏に人質になっていた松平元康徳川家康)は岡崎に復帰することができた。彼は名前を家康と改め,領内の一向一揆と対決してこれを鎮圧し,領国支配の基礎を固めた。ついで尾張の織田信長と提携してその勢力を西に伸ばし,また70年(元亀1)には本拠を東の浜松に移し,86年(天正14)にはさらに駿府(現,静岡市)に移った。その支配は三河,遠江,駿河,信濃,甲州の5ヵ国に及び,〈海道一の弓取り〉といわれた。豊臣秀吉が政権を取ると家康は関東に移されたが,秀吉亡きあとは1600年(慶長5)関ヶ原の戦に勝利を収め,幕府を江戸に開いた。

 家康の関東移封後は,三河の地は秀吉によって岡崎に田中吉政吉田(現,豊橋市)に池田輝政が入封していたが,関ヶ原の戦後は,この地が家康ゆかりの土地であるところから岡崎には腹心の本多氏,吉田には松平氏が入封するなど,各地に譜代大名が配置された。また,これら大名領と並んで多くの旗本領や天領,寺社領が置かれた。初期(寛永末)のごくおおまかな大名配置をみると,岡崎には本多氏が入って碧海(へきかい),幡豆,額田,加茂郡を中心に5万5000石余,吉田は松平氏に代わって水野氏が支配して宝飯(ほい),渥美,八名郡に4万5000石余,ほかに西尾藩本多氏は碧海,幡豆郡に3万5000石余,刈谷藩松平氏は碧海,額田,加茂郡などに3万石,新城(しんしろ)藩水野氏は設楽,宝飯郡に1万1000石余,田原藩戸田氏は渥美郡に1万石,中島藩板倉氏は碧海郡に1万石,挙母(ころも)(現,豊田市)藩三宅氏は加茂郡を中心に1万2000石を支配していた。他国の大名で三河に領地を持つ大名もあり,たとえば甘縄(あまなわ)藩(相模国)松平氏は碧海,幡豆,額田郡に1万9000石余,石戸藩(武蔵国)牧野氏は八名郡に1800石を持っていた。これら大名領のほかに赤坂陣屋(現豊川市,旧音羽町)支配下の天領が三河一円にわたって存在し,その石高は5万6000石余,旗本領は加茂郡に7000石を持つ三宅康盛をはじめとして44人,その石高は6万石余,ほかに寺社領が9000石余あり,三河一国の総石高は35万石であったという。

 譜代大名が多いために移動もはげしく,多いところでは吉田藩で10人,西尾藩と刈谷藩で9人の大名が交代している。なお初期には伊保(いぼ)(現,豊田市),深溝(ふこうず)(現,額田郡幸田町),作手(現,新城市),足助,畑(現,田原市)に一時,城下または陣屋が置かれ,中期には奥殿(おくとの)藩(現,岡崎市)松平氏,西大平藩(同)大岡氏が成立し,維新期には西端(にしばた)藩(現,碧南市)本多氏,半原(はんぱら)藩(現,新城市)安部氏,重原(しげはら)藩(現,刈谷市)板倉氏が置かれた。譜代大名であるため幕閣の政治に参加して功績をあげた者も多く,初期では老中となった中島藩の板倉重矩(しげのり),中期では老中として8代将軍吉宗の享保改革に参加した岡崎藩水野忠之松平定信の寛政改革を助けた吉田藩の松平信明,幕末には岡崎藩の本多忠民(ただもと)らがいる。

初期の大名はいずれも藩政の確立に努力した。最初吉田藩,のち岡崎藩主となった水野忠善(ただよし)は,家康に仕えた三河以来の歴戦の勇士で譜代意識が強く,鬼監物と呼ばれて数々の逸話の持主である。中期以降は藩財政の困窮もあってその再建が試みられたが,なかでは岡崎藩の水野忠辰(ただとき)による藩政改革の試みと田原藩での渡辺崋山の活躍が注目される。忠辰は重臣の反対を押し切って人材を登用し,藩政の刷新を試みたが反対が多く,ついには改革も失敗し,座敷牢に入れられ,悲劇の名君といわれている。渡辺崋山は家老として田原藩の改革に取り組み,人材登用,藩校成章館の充実,軍備および海防の強化に努力し,また大蔵永常を招いて殖産興業政策を推進し,あるいは,報民倉を設けて非常の際の領民の救済を計画するなど,その活躍はめざましいものがあった。しかし蛮社の獄によって自殺に追い込まれ,改革は中途で挫折した。彼の遺志は村上範致(のりむね)や鈴木春山らによって受け継がれ,幕末にあって田原藩は小藩ながら洋式軍備の強化に成功するなど,藩政の刷新にはみるべきものが多い。

 三河の地は,西三河では矢作川,東三河では豊川が南北に流れ,暴風雨によってたびたび水害を起こし,領民を苦しめた。凶作による被害も多く,加えて領主による年貢増徴や物価騰貴もあって百姓一揆がしばしば起こった。なかでも1680年(延宝8)の幕領47ヵ村代表による江戸出訴,1738年(元文3)の刈谷藩での領内総検見に対する反対一揆,52年(宝暦2)の挙母藩における飯野八兵衛一揆(芋八騒動),90年(寛政2)の刈谷藩での高掛金賦課反対一揆などが知られている。とくに三河最大の一揆として天保の飢饉に端を発した加茂一揆は,加茂郡足助町から寺部村(現,豊田市)一帯にかけての250ヵ村の村々を巻き込んだ大一揆であった。岡崎藩をはじめ周辺の藩兵の出動によって鎮圧されたが,当時の徳川斉昭,水野忠邦ら幕閣の首脳に大きな衝撃を与えた。

代表的な産業としては,西三河で三河木綿がある。綿はとくに矢作川下流の平野部畑地を中心に早くから栽培が行われ,戦国末には京都に一部送られていたが,江戸開府とともに江戸へ送られた。矢作川河口の平坂(へいさか)経由が多かったために平坂木綿とも呼ばれ,各地に買次問屋があって仲買,小買を通して木綿の集荷に当たっていた。また中期以降は木綿問屋と綿問屋とに分かれてそれぞれ集荷に当たったが,彼らは土地の大地主でもあり,利貸経営者でもあった。碧海・幡豆両郡では酒造業が盛んで,生産された酒はやはり江戸へ送られていた。1785年(天明5)には5万5000樽に達し,酒造家は自己の資金の一部を廻船の建造費に投資して輸送の確保にも努力していた。三河湾沿岸では明治に至るまで製塩が盛んで,大浜,棚尾,幡豆,一色や蒲郡付近などが産地として知られ,その多くは岡崎の塩座を経由して奥地や信州方面へ運ばれた。ほかに高浜,大浜などでは三州瓦の生産も盛んであった。なお矢作川,豊川の河口を中心に早くから新田開発が行われ,藩営新田町人請負新田,代官見立新田など,いろいろな性格の新田が造成されている。

 三河各地を結ぶ交通路も整備されたが,その中心は東海道であり,東から三河に入って二川(ふたがわ)宿(現,豊橋市)を通って城下吉田宿に達し,御油(現,豊川市),赤坂の宿から藤川宿(現,岡崎市)を経て城下岡崎宿に至り,さらに池鯉鮒(ちりゆう)宿(現,知立市)を経て尾張の鳴海宿(現,名古屋市)に達した。各宿場では本陣,脇本陣をはじめ多くの旅籠があってにぎわいをみせていた。参勤交代の大名をはじめとして多くの人々が通行したが,中期以降は公用旅行に依存する宿駅の財政も困窮し,また周辺村々の助郷の負担も増大し,たびたび宿救済や助郷減免の要求が出されている。この東海道が東西の主として公用の道であったのに対して,矢作川と豊川は,南北を結ぶ経済の道として物資の水上輸送が活発であった。上流からは年貢米をはじめ伊那街道,飯田街道を下った信州荷を含めて各種の品物が下り,矢作川ではそれに加えて八丁味噌や製塩に用いる燃料の薪などが多量に運ばれた。下流からは塩や茶,綿,木綿などが上流へと運ばれ,一部は中馬(ちゆうま)によって信州へと送られている。

 三河地方の文化は,当初は城下町を中心に発達した。城下吉田には時習館,田原には成章館,挙母には崇化館(そうかかん),刈谷には文礼館,西尾には修道館が設けられ,維新期には岡崎に允文館(いんぶんかん),半原に学聚館,重原に養正館などができ,ここが家中子弟の教育の中心となった。また中期以降は寺子屋が各村々に設けられ,その数は尾張よりも多く,庶民文化の向上に大きく貢献した。学者では吉田で太田錦城とその門下,岡崎では秋本嵎夷(ぐうい),田原では鷹見爽鳩(そうきゆう),挙母では伊藤東所など,国学者では刈谷の村上忠順,吉田の羽田野敬雄らがおり,ほかに大田白雪,渡辺政香らが,地方文人として活躍している。

 幕末にはこの地方でも各地でお札降りやええじゃないかの騒ぎが起こり,政局は緊張した。しかし三河諸藩は譜代で藩内の保守派が政権を握り,目だった動きもなく維新を迎えた。版籍奉還後は豊橋(旧,吉田),西尾,岡崎,重原,刈谷,挙母,田原,西端,西大平,半原の10藩は10県となり,さらにこれが統合されて額田県となって県庁は岡崎に置かれたが,まもなく愛知県に統合された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三河国」の意味・わかりやすい解説

三河国
みかわのくに

国郡制の時期に愛知県東部に設定された国名。参州(さんしゅう)。東海道15か国の一つ。東は遠江(とおとうみ)国(静岡県)、北は信濃(しなの)(長野県)・美濃(みの)(岐阜県)の両国、西の北半は尾張(おわり)国(愛知県)に接している。当国は北部山岳地帯としての奥三河、その地帯より源を発し、東部、西部をそれぞれ貫流する豊川(とよがわ)流域平野の東三河と矢作(やはぎ)川流域平野の西三河、さらに遠州灘(えんしゅうなだ)と伊勢(いせ)湾を東西に画し、志摩半島の志摩国(三重県)と相対する渥美(あつみ)半島の4地域に分かつことができる。4地域とも風土的・歴史的地域差をもつが、方言に端的に示されるように総体としては尾張とはかなり異なる東国的な文化圏を発展させてきた。

 三河の語源については、三つの川があったからとか、加茂(かも)の神の御川(みかわ)の義であるとかの説はあるが、通説というべきものはない。先史時代の歴史を物語る資料としては、まず豊橋市牛川(うしかわ)町で発見された成人女性の左上腕骨と成人男性の大腿(だいたい)骨片の化石人骨がある。牛川人と名づけられた人骨はいずれも約10万年前の中期洪積世の旧人と鑑定され、いまも論争の続いている明石(あかし)原人を別とすれば、日本最古の人類である。縄文時代の遺跡としては大量の人骨が発掘された吉胡(よしご)貝塚が、また弥生(やよい)時代では豊川河口近くの豊橋市瓜郷(うりごう)遺跡などがあり、豊川(とよかわ)市篠束(しのづか)町の篠束遺跡は三河以東での最初の農村遺跡として名高い。

 9世紀ごろに編纂(へんさん)された『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば、三河は古く三河と穂(ほ)の二つのクニに分かれ、それぞれ三河国造(くにのみやつこ)、穂国造が支配していたが、豊川市国府(こう)町所在の全長96メートルの船山古墳に象徴されるように、東三河の豪族の力が強大となり、国衙(こくが)は穂のクニに置かれることとなった。令(りょう)制では上国、『延喜式(えんぎしき)』では近国に位置づけられ、加茂、額田(ぬかだ)、碧海(あおみ)、幡豆(はず)、宝飫(ほお)、八名(やな)、渥美の7郡に分ける。このうち903年(延喜3)宝飫の北部を割いて設楽(したら)郡を設置した。国府および国分寺はともに豊川市内にあった。平安時代には伊勢神宮との関係深く、1192年(建久3)には12か所に神戸(かんべ)、御厨(みくりや)、御園(みその)があった。鎌倉期には公武両勢力の接点となる。守護の初見は安達盛長(あだちもりなが)。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後は足利(あしかが)氏の世襲となり、斯波(しば)、一色(いっしき)、細川、仁木(にき)、今川氏などその一族被官(ひかん)の本拠となった。彼らは南北朝時代の内乱に戦功をたて、管領(かんれい)や侍所頭人(さむらいどころとうにん)など室町幕府の要職につく。室町期の守護は仁木義長(よしなが)が初代、大島義高(よしたか)、一色範光(のりみつ)、一色詮範(あきのり)、細川持常(もちつね)、同成之(しげゆき)、一色義直(よしなお)と受け継がれて戦国時代を迎える。

 15世紀中葉から、加茂郡松平村より出た松平氏が台頭し、3代信光は碧海郡安祥(あんじょう)城、松平氏7代清康(きよやす)は岡崎城を拠点として西三河に勢力を広めた。松平氏8代広忠(ひろただ)の時期、三河は東西から今川、織田両氏の侵入にあい、広忠は今川義元(よしもと)と盟約しながら岡崎城1城を保つにすぎなかったが、その子徳川家康は、今川義元が桶狭間(おけはざま)合戦に敗死後、織田信長と同盟を結んで東進し、1590年(天正18)関東に転封する。関ヶ原役後、家康は松平家清を吉田(豊橋)、本多康重(やすしげ)を岡崎、本多康俊を西尾に置くなど8家の譜代(ふだい)大名を創設したほか、多くの旗本領、直轄領を設定した。細分割支配の特色は江戸時代を通じて受け継がれ、三河の開発に大きな影響を与えた。維新時の幕府直轄領は三河県となったが、伊奈(いな)県に合併、また10藩あった藩領域は額田県となり、1872年(明治5)に両地域とも愛知県に編入された。

 三河地方は古代から良質のあしぎぬの産地として知られていたが、早くも16世紀からは木綿が栽培される。近世では所領関係が複雑なため、水田開発は比較的後れたが、「三河木綿」の名があるように木綿の名産地であった。

[所理喜夫]


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藩名・旧国名がわかる事典 「三河国」の解説

みかわのくに【三河国】

現在の愛知県東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の豊川市におかれていた。平安時代伊勢神宮との関係が深く、同神宮に貢進(こうしん)する神戸(かんべ)、御厨(みくりや)、御園(みその)などの所領が多くおかれた。鎌倉時代守護は安達(あだち)氏、足利(あしかが)氏吉良(きら)氏で、南北朝時代から室町時代には高(こう)氏、仁木氏、一色(いっしき)氏細川氏など足利一族が務めた。戦国時代には徳川氏の祖松平氏が近隣の土豪を制して有力となったが、今川氏織田氏の東西からの進出に苦しんだ。1560年(永禄(えいろく)3)の桶狭間(おけはざま)の戦い後、三河一向一揆(いっこういっき)を制圧した徳川家康(とくがわいえやす)が領国支配に成功。江戸時代には譜代(ふだい)藩が多くおかれ、幕府直轄領、旗本領もあった。1871年(明治4)の廃藩置県により額田(ぬかた)県に属したが、翌年に額田県は愛知県に併合された。◇三州(さんしゅう)ともいう。また参河(みかわ)国、参州(さんしゅう)とも書く。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三河国」の意味・わかりやすい解説

三河国
みかわのくに

現在の愛知県東部。東海道の一国。上国。三川,参河とも書かれた。『旧事本紀』には穂 (ほ) ,三河の2国造がみえるが,前者はのちの宝飫 (ほお) 郡を中心とした東部地方,後者は西部地方を占めたものとみられる。国府は豊川市国府町。国分寺は豊川市八幡町。『延喜式』神名帳には 26座 (25社) の宮社が記され,砥鹿 (とが) 神社がのち当国の一宮となった。『延喜式』には碧海,賀茂,額田 (ぬかた) など8郡,『和名抄』には郷 70,田 6820町を載せている。鎌倉時代には源頼朝が弟の範頼を三河守,守護には安達盛長を任じ,のち足利氏が代々守護を相伝したとみられる。幡豆 (はず) 郡吉良荘はもと九条家領で足利義氏が地頭に補せられ,以後吉良氏の根拠地となり後世まで勢力をもった。幡豆郡には饗庭 (あえば) の神宮御厨 (みくりや) などがあった。室町時代には高,仁木,一色,細川の諸氏が守護となったが,15世紀頃から賀茂郡に松平氏が現れた。 16世紀に入ると岡崎に松平清康 (徳川家康の祖父) がおり,戦国時代には足利氏の後裔今川氏が駿河,遠江からさらに当国にも勢力を伸ばしたが,永禄3 (1560) 年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて滅び,のち松平広忠の子家康が徳川氏を称して次第に勢力を伸ばし当国を領有した。豊臣秀吉のとき家康は関東に移り,一時田中吉政,池田輝政が入国したが,江戸時代には徳川氏発祥の地として岡崎には本多氏,吉田 (豊橋) に松平氏,西尾に松平氏,刈屋に土井氏,挙母 (ころも) に内藤氏など親藩,譜代の大名が封じられた。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,各藩は県となり,一時額田県に統合されたが,翌5年に愛知県に併合された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三河国」の解説

三河国
みかわのくに

東海道の国。現在の愛知県南東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では碧海(あおみ)・賀茂・額田(ぬかた)・幡豆(はず)・宝飯(ほい)・設楽(したら)・八名(やな)・渥美(あつみ)の8郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は宝飯郡(現,豊川市)におかれた。一宮は砥鹿(とが)神社(現,豊川市一宮町)。「和名抄」所載田数は6820町余。「延喜式」には調として羅・糸などのほかに,魚介類を定める。鎌倉時代には足利氏が守護をつとめ,守護所が矢作(やはぎ)(現,岡崎市)におかれて一族が土着し,鎌倉倒幕や室町幕府確立の基盤となった。室町時代には幕府の要職を占めた一色氏や細川氏が任じられた。戦国期には松平氏が台頭したが,駿河国の今川義元の勢力拡大にともないその支配下に入り,桶狭間(おけはざま)の戦ののち徳川家康が国内を平定,支配を確立した。戦国期に木綿栽培が普及し,近世を通じて特産品となる。江戸時代は譜代大名が配置され,ほかに幕領・旗本領・寺社領があった。1871年(明治4)の廃藩置県の後,額田県に統合され,72年愛知県に併合された。

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百科事典マイペディア 「三河国」の意味・わかりやすい解説

三河国【みかわのくに】

旧国名。三州とも。東海道の一国。現在の愛知県東半部。《延喜式》に上国,8郡。国府は豊川市。中世の守護は安達,足利氏らののち仁木(にっき),一色,細川らの諸氏。次いで駿河から今川氏が進出。桶狭間の戦後,徳川氏が支配。近世は吉田・岡崎など諸藩に譜代大名を配置。
→関連項目愛知[県]加茂一揆中部地方

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世界大百科事典(旧版)内の三河国の言及

【愛知[県]】より

…東西約106km,南北約94kmで,知多・渥美両半島の突出によりカニの甲羅状を呈する。
[沿革]
 明治以前,愛知県は境川より東の三河国と西の尾張国からなっていた。近世には尾張国には親藩の尾張藩(名古屋藩)が置かれたが,三河国には吉田藩(1869年豊橋藩と改称),岡崎藩田原藩など譜代諸藩と天領,旗本領が散在した。…

※「三河国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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