日本歴史地名大系 「足助村」の解説 足助村あすけむら 愛知県:東加茂郡足助町足助村[現在地名]足助町足助巴(ともえ)川の支流足助川が大きく湾曲して巴川に合流するところの河岸段丘上に立地。東は今朝平(けさだいら)村、南は真弓(まゆみ)山を隔てて足口(あしくぢ)村・有洞(うとう)村、西は岩神(やがみ)村・寺沢(てらさわ)村、北は塩(しお)ノ沢(さわ)村・越田和(こいだわ)村に接する。街道は今朝平村を経て信州への伊那(いな)街道と美濃国恵那(えな)郡明知(あけち)・岩村(いわむら)への美濃街道、寺沢村を経て名古屋への伊保(いぼ)街道と岡崎への七里(しちり)街道が通じ、古来交通の要地であった。宮(みや)ノ後(あと)遺跡は巴川が九〇度近く湾曲した左岸の段丘上にあって、足助八幡宮・足助神社境内、足助町役場敷地などにまたがる遺跡で、縄文時代早・中・後・晩期、弥生時代、古墳時代、奈良時代以降各時期の遺物を出土することで知られる。宮平(みやだいら)遺跡は同じ段丘上の山麓近いところにあり、縄文時代・弥生時代の遺物を出土している。巴川右岸の段丘上にある飯盛(いいもり)遺跡では縄文時代・弥生時代の遺物が出土。足助川右岸の段丘上、東の端近くにある引陣(ひきじん)遺跡では縄文時代の遺物、その西南の石橋(いしばし)遺跡では縄文時代・弥生時代・平安時代・鎌倉時代の遺物、その西の田町(たまち)遺跡では奈良時代の遺物を出土し、左岸の今岡(いまおか)遺跡でも古墳時代の遺物を出土している。平安時代末期、高橋新(たかはししん)庄あるいは足助郷の荘官として尾張国山田(やまだ)庄から移住してきた足助氏初代重長は、近岡(ちかおか)村の黍生(きびゆう)城に住したが、二代重秀は飯盛山城に拠り、足助氏は八代重政まで続いている。現知立(ちりゆう)市の遍照(へんじよう)院に、猿投(さなげ)神社(現豊田市)に奉納された大般若経六〇〇巻が保存されており、その巻五九〇に「延慶四年七月廿三日、於足助政所校合」の奥書がある。当時存在した足助政所が、荘園管理のためのものか、あるいは足助八幡宮の政所であったか不明。その後室町時代中期になると、三河鈴木の一統である矢並(やなみ)(現豊田市)の鈴木小次郎忠親が真弓山城(足助城)に拠り、足助庄に威を振るった。以後鈴木氏は五代続くが、戦国時代に入ると戦国諸雄の来攻がしばしばあり、鈴木氏の去就も定かでなかった。この頃までに宮平には、応永三〇年(一四二三)当時光勝(こうしよう)庵とよぶ寺があり、神宮寺のある足助八幡宮は文正元年(一四六六)に本殿を再建している。飯盛山の足助氏の居館跡には、応永三四年、曹洞宗の香積(こうじやく)寺が創建されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by