飯石庄・多久和郷(読み)いいしのしよう・たくわごう

日本歴史地名大系 「飯石庄・多久和郷」の解説

飯石庄・多久和郷
いいしのしよう・たくわごう

現在の三刀屋町南部の多久和・六重むえ中野なかの神代こうじろに所在した。古代飯石郷が再編成されて成立した中世的所領。平安末と推定される年月日未詳の成勝寺年中相折帳(宮内庁書陵部所蔵祈雨法御書裏文書)によると、「飯石御庄」は上座法橋増仁が仁平二年(一一五二)八月一五日に崇徳天皇の御願寺成勝じようしよう(現京都市左京区)寄進し、本所成勝寺に納める年貢が莚五〇枚であった。これに先立ち開発領主による増仁(領家)への寄進があったと考えられる。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)には流鏑馬一五番のうち一一番と相撲一〇番に飯石郷の名がみえ、文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には一二番に「飯石郷十四丁四反半目黒左衛門入道子」とあり、武蔵国の西遷御家人目黒氏が地頭であった。暦応元年(一三三八)一二月四日の高師泰施行状(三刀屋文書)では、多禰清頼と目黒太郎左衛門尉に対し、大雲だいうん(現広瀬町)雑掌による三刀屋郷惣領地頭職への押妨を停止し、下地を諏訪部扶重に渡し付けるように命令されている。文明一七年(一四八五)六月二五日に日御崎社(日御碕神社)に対して源朝臣目黒彦太郎が神門かんど常楽寺じようらくじ(現湖陵町)内田一反を寄進している(日御碕神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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