日本歴史地名大系 「飾磨郡」の解説 飾磨郡しかまぐん 面積:一六六・四五平方キロ(境界未定)夢前(ゆめさき)町・家島(いえしま)町古代には播磨国南部中央に位置し、東は印南(いなみ)郡、南は瀬戸内海、北は神崎(かんざき)郡、西は宍粟郡・揖保(いぼ)郡に囲まれていた。立地環境は播但山地と中播丘陵および夢前川などの河口の三角洲地帯に区分できる。西部は宍粟郡境の雪彦(せつびこ)山(九一五・二メートル)を源とする夢前川と菅生(すごう)川の流域に相当し、東部は市(いち)川の下流域にあたる。郡名は藤原宮跡出土木簡に志加麻評とあるのが早い例で、「播磨国風土記」によると、大三間津日子命が屋形を造った際に鹿が鳴くのを聞いたことに由来するという。郡名は餝磨(「播磨国風土記」など)・志磨(神亀三年「山背国愛宕郡雲下里計帳」正倉院文書)などとも表記された。「和名抄」東急本に「国府」とあり、訓はみえない。享保八年(一七二三)板本の「延喜式」神名帳にはシカマと訓が付される。なお天暦四年(九五〇)の東大寺封戸庄園并寺用雑物目録(東南院文書)に餝磨西郡がみえ、長元七年(一〇三四)二月八日の播磨大掾播万貞成解(九条家本延喜式裏文書)に餝東(しきとう)郡がみえることから、当郡は一〇世紀半ばまでに東西両郡に分割されていたと考えられる。以後中世から近世を通じて飾東(しきとう)・飾西(しきさい)の両郡に分れていたが(→飾東郡 →飾西郡)、両郡を合せて飾磨郡と表記されることもあった(「寛文朱印留」など)。明治八年(一八七五)揖東(いつとう)郡家島が飾東郡に編入され、同二九年飾東・飾西両郡が合併し、再び飾磨郡が成立した。その後南部は姫路市に編入され、現在は北部の夢前町と播磨灘に点在する家島諸島からなる家島町の二町となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by