日本歴史地名大系 「香田村」の解説 香田村こうだむら 佐賀県:三養基郡中原町香田村[現在地名]中原町大字簑原(みのばる)字香田蓑原(みのばる)村の北方、綾部(あやべ)川(寒水(しようず)川の上流)扇状地の東扇側に立地。正保絵図に村名がみえるが郷村帳の多くは蓑原村の内としている。貞享四年(一六八七)改の郷村帳では地米(年貢)高四一石余の小村で佐賀藩の蔵入地。幕末には小配分士三名が知行している(嘉永六年写の大小配分石高帳)。氏神の岩清水(いわしみず)八幡神社は現集落から離れて蓑原村に接した地に鎮座しているが、かつての香田村はこの付近にあったのが、漸次現在地に移動したという。なお山田(やまだ)村(現大字簑原字山田)は綾部川の渓口、扇状地頂点の集落で、郷村帳の多くは香田村とともに蓑原村内にあげ、香田村と氏神をともにしている。 香田村こうだむら 佐賀県:佐賀市巨勢郷香田村[現在地名]佐賀市兵庫町(ひようごまち)大字藤木(ふじのき)文化一四年(一八一七)の郷村帳によれば中佐賀郷に属しているが、これは巨勢(こせ)川の東に位置するからであろう。もと巨勢庄に属し、応永九年(一四〇二)千葉某(胤泰または胤基)が玉林(ぎよくりん)寺(現佐賀郡大和(やまと)町)の玉回和尚に与えた安堵状に「香田内田地五町」が記されている。当時千葉氏の勢力下にあり、玉林寺の支配の田地があったことを物語る。天正一二年(一五八四)竜造寺氏の勢力下にあった筑後の豪族田尻鑑種が巨勢に知行替を命じられたが、その土地のなかに東香田の「徳田二町七段二畝十四歩・徳屋敷二段十一歩・作田八町二段六畝廿歩 合十一町一段七畝十五歩」が含まれていた(田尻家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報