馬立村(読み)うまたてむら

日本歴史地名大系 「馬立村」の解説

馬立村
うまたてむら

[現在地名]新宮村馬立

現新宮村の西部を占める山村。東は新宮村・上山かみやま村・新瀬川しんせがわ村に、南は立川たぢかわ(現高知県長岡郡)に、西は小川山おがわやま(現伊予三島市)に、北は三角寺さんかくじ村・金川かながわ村・半田はんだ(現川之江市)に接する。銅山どうざん川が村の西から東に貫流、また馬立川(下流川といい銅山川に流入)が南北に流れる。

日野豊田系図によると、日野氏が永正八年(一五一一)にまず馬立村に来て、その後上山村に移ったとされる。村に天正検地の伝えがあり、また慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩郡の項に「馬立村 はへ山有、柴山有」とある。

馬立村
うまたてむら

[現在地名]市原市馬立

上高根かみたかね村の南東に位置し、養老ようろう川が流れる。対岸土宇つちう村と結ぶ田村たむら渡がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九三二石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高九五四石余で家数一七三、三卿の清水領と旗本三好・稲富・川口領。文政八年(一八二五)より一部が貝淵藩(のち請西藩)領となる。旧高旧領取調帳では請西藩領七六石余と三好領四七五石余・稲富領三四二石余・川口領六〇石余。

馬立村
またてむら

[現在地名]岩井市馬立

弓田ゆだ村の南に所在。村域西部、菅生すがお沼上流ヤトの東の台地、字松葉まつば高山たかやま古墳は横穴式円墳で、半地下式に石槨が造られている。直刀・勾玉・切子玉・金環・人骨などが出土。

戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「一 またての郷 拾五貫文 ミねんく 五貫文 夫銭 卅(ママ) 斗物」がみえ、天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)には「またて 伊賀藤七郎」とある。弓田村との境にある伊賀いが堀は伊賀藤七郎の時に用水堀として掘られたものという。

馬立村
うまたてむら

[現在地名]新宮町馬立

市野保いちのほ村の南、栗栖くりす川下流の右岸に位置する。揖東いつとう郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代領主変遷市野保村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(池田家文書)では高二九九石余。正保郷帳では田方二一七石余・畑方三一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報