川之江村(読み)かわのえむら

日本歴史地名大系 「川之江村」の解説

川之江村
かわのえむら

[現在地名]川之江市川之江町

宇摩うま東部(現川之江市)の主邑。金生きんせい川下流両岸の沖積平野上に開けた村で、河江・川江・河上・川上とも書く。土佐道・金比羅こんぴら道の通過地であり、東は長須ながす村・山田井やまだい村、南は下分しもぶん村、西は妻鳥めんどり村に接し、北西はひうち灘に面する。周辺部は、東は大岡おおおか区の丘陵、西はしろ山・井地いじ山・祇園ぎおん山・瓢箪ひようたん山などの丘陵に囲まれている。

「太平記」巻二二に、興国三年(一三四二)五月四日「細河刑部大輔頼春(中略)勢七千余騎ヲ率シテ、先伊予ノ堺ナル河江城ヘ押寄テ、土肥三郎左衛門ヲ責ラル」とあり、城山に築かれた川之江城の名がみえる。

この地の開発の歴史は古く、大江おおえ・瓢箪山・古仏こぶつ山・井地山・おひめ山・宝洞ほうどう山など周辺の丘陵に弥生時代・古墳時代の文化の跡をとどめている。律令時代には宇摩郡山田郷に属したと推定され、官道の大岡駅を当地とする説もある。中世には伊予の河野氏と讃岐国の細川氏らの抗争に巻き込まれ、川之江城・畠山はたけやま城を拠点として興亡を繰り返した。

戦国時代末には長宗我部元親に征服され、秀吉の四国統一後は小早川隆景福島正則の所領。関ヶ原合戦後は加藤嘉明蒲生忠知の所領を経て、寛永一二年(一六三五)から天領、同一三年に一柳直家の所領となって川之江藩が成立したが、男嗣がなく卒去したため、同二〇年より再び天領となった。そして一時期の直轄時代を除き、長く松山藩預所であり、川之江陣屋は伊予国四郡の天領(のちに宇摩・新居の二郡)を管理して幕末に至り、慶応四年(一八六八)には土佐藩に占領されその預所となった。

享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡川之江村明細帳(長野家文書)は、天正一九年(一五九一)の福島左衛門大夫検地と伝えられる川之江村の村高を「高千六拾九石九斗一升四合 本田畑」と記し、慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項には「川之江村 日損所、松林有、柴山有」とみえる。

川之江村は陣屋町として、陸海交通の要地として、村方・町方・浜方が一村内にあるという特殊な発展形態を示した。元禄一四年(一七〇一)および享保六年の伊予国宇摩郡川之江村明細帳などにより、江戸時代中期の村勢をみることができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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