馬緤村
まつなぎむら
高屋村の西にある海村で、外浦街道が通る。「三州志」は赤神・中平・鰐崎の垣内を記す。「能登名跡志」は小名として大間・鰐崎・泊をあげ、源義経の馬を繋いだことから馬緤の名があるとし、神馬草という海藻を飼料に充てたという。別に鈴の御牧があった頃の遺名とも伝える(能登志徴)。南北朝期から馬繋浦の存在が知られる。また恒俊名・吉弘名・国長名などがみえるが、これらの名主は佐渡から逃れてきた阿新丸の筋目という七名と伝え、とくに恒俊は恒利・常利などとも書き、天正一〇年(一五八二)―一五年分の西海年貢算用状写(友貞文書)の同一一年分に「まつなき つねとし」とあり、扶持分一〇俵となっている。常俊は元和二年(一六一六)の検地で扶持没収となり、寛永期(一六二四―四四)には闕所とされ、隷属農民の独立をみた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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