駒塚村(読み)こまづかむら

日本歴史地名大系 「駒塚村」の解説

駒塚村
こまづかむら

[現在地名]羽島市竹鼻町駒塚たけはなちようこまづか

蜂尻はちじり村の東に位置する大浦おおうら輪中内の村。北半の東は三柳みつやなぎ村、南半の東は木曾川に臨む。慶長一五年(一六一〇)一〇月の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)に村名がみえ、二九四石余(野年貢ともに)が石河光忠に宛行われている。石河光忠の父光吉はもと豊臣家臣で、関ヶ原の戦で西軍に加わったため領地を没収され、仏門に入った。光忠は慶長一三年家康に召出され、同一五年美濃に九千七七六石余、摂津に二三二石余を与えられた。光忠の子正光は慶安五年(一六五二)尾張藩家老となり、子孫が継職して幕末に及んでいる。当初は石津いしづ市之瀬いちのせ(現養老郡上石津町)に居所を置いたが、正光の代に当地に移した(岐阜県史)

元和二年(一六一六)の村高領知改帳では石河光忠領、正保郷帳では尾張藩領(石河氏給所で幕末に至る)、田方七〇石余・畑方一八四石余・桑木高一石五斗余・野年貢三八石。


駒塚村
こまつかむら

[現在地名]江戸崎町駒塚

椎塚しいつか村の西南に位置し、小野おの川右岸にある。中世には東条とうじよう庄に属したといわれる。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は七四三石余。幕末は旗本山内氏領五三七石余、藤本氏領二二五石余、天領九斗余(各村旧高簿)。駒塚河岸があり、元禄三年(一六九〇)四月に幕府が江戸への年貢米輸送の運賃を定めた関八州伊豆駿河国廻米津出湊浦々河岸之道法并運賃書付(徳川禁令考)には「駒塚河岸 江戸川通四拾八里 運賃米百石ニ付四石」とある。元治元年(一八六四)の「天狗騒動聞見録」(桜川村郷土史資料)によれば、当村など一二ヵ村が水戸天狗党の取締を仙台藩の龍ヶ崎陣屋へ愁訴し、「浪人参り金策等其外乱妨之義有之候はゞ、駒塚村毘沙門堂之鐘ヲ鳴ラシ候ヲ相図に致し、早速寄集り鉄砲竹槍等持参にて、其所へ押寄候筈取極候由に御座候」と、対策を立てている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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