高林村(読み)たかはやしむら

日本歴史地名大系 「高林村」の解説

高林村
たかはやしむら

[現在地名]太田市高林

下浜田しもはまだ村の南、利根川支流の石田いしだ川の左岸に位置する。南は武蔵国幡羅はたら小島こじま(現埼玉県大里郡妻沼町)、西は牛沢うしざわ村・富沢とみざわ村・福沢ふくざわ村、東は東矢島ひがしやじま村・邑楽おうら古戸ふつと村。八瀬やせ川が村の中央および古戸村境を南流して石田川に注ぐ。東を古戸道が南北に、中央をさかい小泉こいずみ往還が東西に通る。南端に石田川高林河岸があった。嘉応二年(一一七〇)新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「たかはやの郷 田四町九反五たい 畠九反卅たい 在家三う」とみえる。いくつかの写本が文永三年(一二六六)と傍注している年欠七月日付の新田庄内大島六郷注文(同文書)には大島おおしま六郷のうちとして「高林郷」がみえる。大島六郷の多くは新田義重の長子高林(里見)義俊の一族の名字の地に一致しており、当地は里見系新田氏の所領であった可能性が高い。


高林村
たかばやしむら

[現在地名]浜松市高林町・高林一―五丁目・中沢町なかざわちよう住吉すみよし一丁目・同四丁目・曳馬ひくま五―六丁目

沢村の北に位置し、西は三方原台地に連なる。中央を浜松宿起点の秋葉道、西端を浜松宿を起点とする本坂通が通る。当村地先の本坂通の往還の長さは五一五間であった(東海道宿村大概帳)。永禄九年(一五六六)六月一三日の今川氏真判物写(参遠古文書覚書)に遠江国浜松庄・国本庄当知行分として「高林村内 付山野林河原居屋敷被官屋敷事」とみえ、松下重勝に安堵されている。遠州劇での忠節によるものであろう。このとき安堵されたのは、永正一四年(一五一七)八月に今川氏親が引間ひくま城の大河内氏を討った時に重勝の祖父六郎右衛門尉の忠節により与えられた恩給地であった。


高林村
たかばやしむら

[現在地名]黒磯市高林

東は入会原野大輪地おおわじ原・箕輪みのわ村、南は蛇尾さび川を隔て上横林かみよこばやし(現那須郡塩原町)、西は湯宮ゆぐう村・木綿畑きわたはた村、北は箭坪やつぼ村。中央をくま川が流れる。那須野ヶ原北部に位置し、水利に乏しい。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「高林」がみえ、北隣の箭坪、東方の赤坂あかさかとともで二五二石二斗一升(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領。慶安郷帳によれば高は畑方のみ。奥州街道大田原宿の大助郷一〇一石余を勤めた(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)


高林村
たかはやしむら

[現在地名]天栄村高林・沖内おきのうち柿之内かきのうち、西白河郡矢吹やぶき境町さかいちよう田内たうち

天栄村の東端に位置し、集落は釈迦堂しやかどう川北岸の河岸段丘に立地。現在同川は南境を蛇行、東流する。天正一七年(一五八九)一一月二二日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「高林五百貫文、并上高林相副」とみえ、保土原行藤に安堵している。上高林はのちの小川おがわ村に比定されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には高林とみえ、高一千五一八石余、蒲生覚以ほか四名の知行地。「白河風土記」によれば、もとは小川村・柿之内村と併せ一村であったが、慶安三年(一六五〇)に分村、三ヵ村は境界はあっても互いに入交じって採樵したとある。しかし白河古領村郷高帳に三ヵ村名がみえ、うち高林村は高五七七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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