日本歴史地名大系 「高梨村」の解説
高梨村
たかなしむら
貞治五年(一三六六)一一月二七日の秋季への譲状(新渡戸文書)に「一大石郷・立株郷・高梨子郷士□□」とみえ、南北朝期は和田氏の所領であったとされるが、委細は明らかでない。その後本堂氏が台頭し、天正一八年(一五九〇)には豊臣秀吉の安堵を得ている。本堂家系譜(小野寺盛衰記)に「高梨村」とあり、高は田一千一六二石三斗三升六合、畑一五九石三斗九升五合、合計一千三二一石七斗三升一合であった。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一千三七六石とある。藩の重臣戸村十太夫の新開地が一九八石余あったといわれ、
高梨村
たかなしむら
- 長野県:須坂市
- 高梨村
現須坂市西部中央。千曲川右岸沖積部。東は
村名に関係のある高梨氏は清和源氏頼季流と称する井上氏の一流とされ、「上高井歴史」は、井上満実が康平七年(一〇六四)前九年の役から帰郷、四子盛水を高梨にとどめ築城したとしている。高梨氏は、古代北陸道経営の祖とされている大彦命の後裔で信濃に入り、小布施(現上高井郡小布施町)に定着した小布勢氏が祖先の経営のあとをつぎ、羽後高梨村(現秋田県仙北郡仙北町)にあった高梨柵(現在の
高梨村
たかなしむら
高梨村
たかなしむら
高梨村
たかなしむら
- 山形県:南陽市
- 高梨村
高梨村
たかなしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報