青木村(読み)あおきむら

日本歴史地名大系 「青木村」の解説

青木村
あおきむら

[現在地名]西区今宿青木いまじゆくあおき今宿東いまじゆくひがし一―三丁目・今宿駅前いまじゆくえきまえ一丁目

志摩しま郡の東端に位置し、北は今津いまづ湾に面する。東は長垂ながたれ(一一八・五メートル)かのう岳を介して早良さわら下山門しもやまと村・拾六町じゆうろくちよう村、南は怡土いと上原かみのはる村。七寺しちでら(現鯰川)が北へ流れ、今津湾に入る。唐津街道が東西に通るほか、鋤崎すきさきから長垂山南方を通り志摩・早良両郡境のコバマへ出る油坂あぶらざか越、ふじ坂を越え早良郡野方のかた村へ出る広石ひろいし越、拾六町村へ出る石引道があった(続風土記附録)。寛仁三年(一〇一九)四月のいわゆる刀伊の入寇の際、大宰府から注進された勲功者注文によれば、怡土郡住人多治久明は「当郡青木村南山辺」で刀伊と戦ったとある(「小右記」同年六月二九日条)。蒙古合戦後には豊前国の御家人役として「青木横浜石築地」、すなわち元寇防塁が築かれた(正安二年閏七月一日「直兼書下案」末久文書/鎌倉遺文二七など)


青木村
あおきむら

[現在地名]大口市青木

目丸めまる村の東、大口盆地南東端に位置し、南は市山いちやま川を境に大隅国菱刈ひしかり郡市山村(現菱刈町)、東は日向国諸県もろかた内竪うちたて(現宮崎県えびの市)に向かい村域はV字型に広がる。北東から南西、さらに南へ青木川が流れ、市山川に合流する。永和三年(一三七七)一〇月二八日、島津伊久・氏久に対抗して肥後・日向・大隅・薩摩の南九州四ヵ国の国人の間で結ばれた一揆(永和大一揆)に、「牛屎青木」の沙弥元生も加わっていた(「一揆神水契状案」禰寝文書)。元生は牛屎氏の一族であろう。文安五年(一四四八)七月以降、島津忠国の被官別苻五郎が「牛屎院内青木之城」に立籠っており、肥後相良勢の犬童重国らの夜襲を受けている(年月日欠「犬童重国軍忠状案」犬童文書)。寛正六年(一四六五)一一月一五日の牛山院坪付写(田代家文書写)には、浮免原田はらだ名として、青木の「はたけ田」七反・「まへ田」三反・「千徳寺ノ前」一反などがみえる。文明七年(一四七五)からの島津国久(薩州家)・季久(豊州家)の乱では、季久らは肥後相良氏、日向伊東氏らと結んで島津家当主忠昌と対立。


青木村
あおきむら

[現在地名]米子市青木・永江ながえ

兼久かねひさ村の南、法勝寺ほつしようじ川と支流小松谷こまつだに川の合流点付近にある。東背部には長者原ちようじやはら丘陵末端が延び、西前面は法勝寺川沿いの平地。村名の由来は地勢から「アワギ」「アウギ」の転訛とされ、おうぎ村と称したともいう。法勝寺川下流平地は沼沢地をつくりやすく、集落は同川西岸から中世以後東岸に移り、一部は近世に再び西岸に移ったとされる(尚徳村史)。発掘調査によれば青木神社前付近の法勝寺川河床は古墳時代、現河床より約二メートル低位にあった。

元和四年(一六一八)の検地では田二三町七反余・畑六町六反余、家数は宗右衛門・善右衛門以下一二軒(尚徳村史)。拝領高は三七八石余、本免は四ツ。元禄九年(一六九六)の下札では高四一七石余(同書)


青木村
あおきむら

[現在地名]新穂村青木

東は国見くにみ山、西は国府こうの川辺に至る広大な地域を有し、明治中頃までは大小二地区に分れていた。飛郷と称して大野青木おおのあおき井内青木いないあおき瓜生野藤野うりうやふじの八王子はちおうじの集落があった。村内の集落にはかつて杉の境木くねぎや屋敷林・竹林などが鬱蒼としていたが、現在は境木も伐られ屋敷林も少なくなった。青木保の遺称地。観応二年(一三五一)六月二七日の筑後守某奉書(本田寺文書)では河原田本間氏一族の本間新兵衛貞忠が「青木郷」などを安堵されている。


青木村
あおきむら

[現在地名]韮崎市清哲町青木せいてつまちあおき

折居おりい村の南にある。村域は釜無川右岸の氾濫原から西部の山麓に及び、南部に枝郷の中谷なかやがある。西部山麓を徳島とくしま堰が流れる。中世、当地には武川衆の一の青木氏が居館を構え、一帯に勢力があった。地内西屋敷にしやしきが同氏居館跡と伝え、常光じようこう寺は同氏歴代の菩提寺である(甲斐国志)。永禄四年(一五六一)の番帳に「あふきの禰き」とみえ、武田家は当地の鎮守諏訪明神(現諏訪神社)の禰宜に対して府中八幡宮への参勤を命じている。天正一〇年(一五八二)の織田軍侵攻の際、青木信時は山小屋へ一族とともに難を避けた。本能寺の変後の甲斐国掌握をめぐる北条氏直と徳川家康の間にあって、信時は氏直の誘いを断って父信親・子信安とともに家康陣営に加わり、北条軍が籠る「小沼の小屋」を攻略した(寛政重修諸家譜)


青木村
あおきむら

[現在地名]飯野町青木

女神めがみ山の南西麓に位置し、北部に千貫せんがん森がある。南北に細長く、東は羽田はねだ(現川俣町)阿武隈川に注ぐ山田やまだ川の小支流域の狭い低地に集落が点在する。千貫森の南側を通称富岡とみおか街道(現国道一一四号)が横断し、南部を南西から北東に通称新橋しんばし街道、東西に福島に至る街道が通る。地名は青木葉とよばれる巨大な神木にちなむとする説と、千貫森の姿が緑の亀に見えるので緑亀(あおき)と称し、のち青木になったという説がある(「信達一統志」など)。戦国期の当地は伊達氏領として青木氏が居住し、懸田氏・伊達実元の所領であったが、その後大内定綱領となり、天正一三年(一五八五)伊達氏領に復したとされる。


青木村
あおきむら

面積:五七・一四平方キロ

小県郡の西端、西と北は東筑摩ひがしちくま郡、東は上田市、南は武石たけし村に接する。青木村に水源をもつ浦野うらの川は、上田市西部を東流して千曲川に入るが、この浦野川の流域一帯を川西かわにし地方とよぶ。青木村はこの川の上流にあり、沓掛くつかけ川流域と田沢たざわ川流域に分れる。沓掛川をさかのぼり、保福寺ほうふくじ峠を越え、東筑摩郡四賀しが村を経て松本市に出る。これが古代の東山道で、その沿道に中挟なかばさみ下奈良本しもならもと入奈良本いりならもと、更にこの道筋の東方に沓掛などの集落がある。


青木村
あおきむら

[現在地名]静岡市青木・用宗巴町もちむねともえちよう広野ひろの一丁目・みずほ二―三丁目・同五丁目

小坂おさか村・大和田おおわだ新田の東に位置し、村内を丸子まりこ川が流れる。中世は青木郷と称された。寛永九年(一六三二)幕府領、同一〇年駿府城代松平勝政領、のち幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本坂部領となる(「寛政重修諸家譜」など)。享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳に村名がみえ、幕府領。文久二年(一八六二)には三河西尾藩領で(「入会問題内済規定」用宗区有文書)、のち幕府領となる。


青木村
あおきむら

[現在地名]入善町青木・青木新あおきしん

黒部川扇状地のほぼ中央にある。村域は北西から南西に向けて細長く延び、通称町組まちぐみ東坪ひがしつぼ柴垣しばがき・西坪・上村かんむら中南なかなん中北なかぼくがあり、旧北陸街道(下街道)が村の中を東西に横切る。北は目川めがわ村・木根きのね村、東は上野うわの村、西は福島新ふくじましん村・道古新どうこしん村・東狐とつこ村、南は一宿新ひとやどりしん村。宝永元年(一七〇四)の村名由来書上(清原家文書)には、青木山養福ようふく寺という真言宗の寺院があったのでその名をとったという。


青木村
あおきむら

[現在地名]鴨川市江見青木えみあおき

吉浦よしうら村の北西にあり、南は海に面する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が村内を通り、朝夷あさい郡に属した。往古は真門まかど村の枝郷で、正徳元年(一七一一)に西真門村から分郷したというが(天保一四年「御用改書上帳」安房博物館蔵)元禄郷帳に村名がみえ、高二一一石余。初め幕府領であったが、享保元年(一七一六)旗本大島領となり(「寛政重修諸家譜」・元文村高帳など)、天保一四年(一八四三)武蔵忍藩領となる(忍藩領郷村高帳など)


青木村
あおきむら

[現在地名]富津市青木

西川にしかわ村の北にあり、江戸湾に臨む。永享二年(一四三〇)六月二七日の鎌倉公方足利持氏寄進状(鶴岡八幡宮文書)周西すさい郡内として青木村内田畠とみえ、持氏は簗田河内守の寄進の地である当村などを改めて鎌倉鶴岡八幡宮に寄進しており、簗田氏の勢力下にあったようである。この河内守は永享の乱で持氏不在の鎌倉御所を守って敗死した簗田満助と考えられる(永享記)。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に北条氏の半手所領として青木とみえ、北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。


青木村
あおきむら

[現在地名]坂戸市青木

塚越つかごし村の東にあり、南は下広谷しもひろや(現川越市)。中央部を鎌倉街道が南北に通り、小名宿しゆくは同街道の宿駅の跡という(風土記稿)。丹党青木氏の名字の地とされる。宝徳二年(一四五〇)九月二一日の足利成氏御判御教書(大庭文書)によれば鎌倉鶴岡八幡宮御供料所の「武蔵国青木村内宗興寺并慶昌庵買得之并船役同地下人等買得所々」などの沽却地が徳政によって鶴岡八幡宮に返付された。天正一八年(一五九〇)七月一七日の鶴岡八幡宮領指出(後藤俊太郎氏所蔵文書)には「武州青木郷之内」三貫三〇〇文が記され、「但御供領之内」とある。


青木村
あおきむら

[現在地名]藤枝市青木一―三丁目・青木・東町ひがしちよう小石川町こいしがわちよう一丁目・駅前えきまえ一―二丁目・志太しだ一丁目

前島まえじま村の北にあり、西を東海道が通る。北は志太村。大井川扇状地の北縁に立地し、瀬戸せと川の支流青木川が東流する。志太郡に属する。天正一七年(一五八九)七月一七日に徳川家康が発した徳川家七ヵ条定書(駿河記)の宛所に「大木」とあり、この定書を所持した青島氏は戦国時代青島あおじまに土着していた土豪であったことから、現青木のことかと思われる。


青木村
あおきむら

[現在地名]中条村住良木すめらぎ

中条村の西、西は奈良井ならい村、北は地京原じきようはら村と境し、南に土尻どじり川が東流し、大町おおまち(現県道長野―大町線)が村内を通る。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「四百三拾四石壱斗六合 青木村」とある。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、当時の枝村として、若宮平わかみやたいら村・仮宿かりしゆく村・里原さとはら村・宇津橋うつはし村・根踏ねふみ村・鹿杭かくい村・田頭たがしら村・穂高ほたか村・天間てんま村の九ヵ所を記していて、早くから散村集落として成り立っていた。


青木村
おうぎむら

[現在地名]岩国市青木町おうぎまち一―二丁目・同四丁目の全域と同三丁目の大部分、および黒磯町くろいそまち一―二丁目の各一部

北は黒磯村、南は保津ほうづ村、西はよね山の山地を挟んで六呂師ろくろし村、東は瀬戸内海に面する。

寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた小村の一つで、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。村内の小名に森ヶ上・石畑・休川やすみがわ上垣内かみがいち大平原おおひらばら・鷺の首・長尾ながお・しやうが原・ゆぶた・三軒屋・二軒屋などがあり、庄屋一人と刀禰一人がおり、由宇組代官の支配に属した。

「御領分村一紙」による村高は二八七石余、うち田高二六九石余、畑高一六石余、楮高一石余であったが、その後田高が少し増加して享保一一年(一七二六)には、村高二九三石余、家数七三軒、人口三四三人、馬一一頭、牛五〇頭、船数四艘(享保増補村記)であった。


青木村
あおきむら

[現在地名]会津坂下町青木

阿賀川南岸にあり、西は青津あおづ村、東は東河原ひがしかわら村。阿賀川対岸は耶麻郡となる。本村の東一町一〇間余に端村舟場ふなばがある。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「青木曲沼矢鏑流馬としかへ」「勝木沢大瓶一紙」とある。勝木沢かつきざわ村は青木村の東にあった村で、慶長一六年(一六一一)の大地震で山崎やまざき新湖ができたとき両村とも水没したが、寛永一〇年(一六三三)青木村と勝木沢村の二六軒が青木村として再興したという。


青木村
あおきむら

[現在地名]大町市大字たいら 青木

現大町市の最北端、青木湖西岸にあり、現加蔵かくら集落に相対して位置する。西から迫る山地は急な傾斜で青木湖中に没するが、その湖岸の小傾斜地が村居となっている。青木の名は、天正一九年(一五九一)の細萱長知等連署状案(栗林文書)に「青木之郷定物成」と表題し、あて名を「あう木ノ与兵衛殿」としているのを初見とする。この文書の内容は、田地と山林の村高を合わせて一貫文とし、そのほかに「あかうを弐百疋 海之役」として、ウグイ二〇〇尾を毎年の小物成として貢納するように規定している。


青木村
あおきむら

[現在地名]博多区半道橋はんみちばし二丁目・空港前くうこうまえ四―五丁目・青木一―二丁目・東平尾公園ひがしひらおこうえん一丁目・青木

席田むしろだ郡に所属。御笠みかさ川中流右岸に位置する。南は平尾村、東は糟屋かすや南里みなみざと(現志免町)。小早川時代の指出前之帳では青木村の田五二町二反余(分米六八四石余)・畠七町九反余(分大豆六九石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高七八〇石余、うち大豆六九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七八五石余(田圃志)


青木村
あおきむら

[現在地名]玉名市青木

小岱しようだい山東麓にあり、東南を菊池川が流れ、北部を北から東へ三蔵さんぞう(箱谷川)が流れる。北は箱谷はこだに村、東は溝上みぞのうえ村、西は石貫いしぬき村に接する。慶長国絵図に村名がみえる。内田手永に属した。宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳によれば田畠屋敷の畝数四二町二反六畝余・その他一町一反六畝余、高五五六石五斗余。天保五年(一八三四)の内田手永手鑑では高二九八石七斗余・土物成一五六石六斗余・受物成一二三石一斗余、田一四町八反一畝余・畑一一町一反八畝余。


青木村
あおきむら

[現在地名]山崎町青木

揖保いぽ川の支流菅野すがの川の中流域に位置し、東は高下こうげ村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は蟹沢かにがさわ村と同じ。正保郷帳では田方三三一石余・畠方二三四石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高六三七石余、田一六町二反余(本村分一四町余・比地町分二町余)・畑四六町四反余(本村分四〇町余・比地町分六町余)、小物成銀三二八余匁(山畑役二一〇匁余・楮役四三匁余・紙舟役三四匁余・新紙舟役三匁余・茶役三一匁余・栗役六匁余・漆役三分余)・桑役(真綿)二一〇匁余、家数一〇五・人数七四一、馬三一・牛九八。


青木村
あおきむら

[現在地名]三島市青木・藤代町ふじしろちよう

新屋あらや村の北東にある。三島町内の湧水を源流とする御殿ごてん川の流れによって開けた地で、同川の西岸に位置する。同川流域は古代からの水田耕作地帯で、三島の経済基盤となった場所と考えられている。応永五年(一三九八)六月二五日の密厳院領関東知行地注文案(醍醐寺文書)に青木村とみえ、伊豆走湯山密厳みつごん(現熱海市)領であった。永禄二年(一五五九)頃には当地と平田ひらたで二一貫五〇〇文が小田原衆渡辺弥八郎に、地内の在庁免の地四一貫文が御馬廻衆左近士九郎左衛門に、当地の一貫文が大珠寺に与えられていた(北条氏所領役帳)。天正一八年(一五九〇)五月一七日青木之郷の百姓は、伊奈忠次より田地の耕作・開発と、徳川家康や豊臣秀吉からの伝役・御用を勤めることを命じられている(「伊奈忠次郷中定書写」柏木文書)


青木村
あおきむら

[現在地名]三原町市青木いちあおき

円行寺えんぎようじ村の南部にあり、西端と南西から北東へ福良ふくら街道が通る。もと円行寺村に属し、円行寺原といわれた松林を開発して成立した村で、寛文一〇年(一六七〇)の青木村新開検地帳(三原郡史)が残る。天保郷帳では高五石余。反別戸数取調書によると反別二八町一反余、高一三五石余、うち蔵入高九〇石余・給知高四四石余、給人は岩田次郎右衛門ら二人。家数四七・人数一八八。八木組に属し、庄屋は天保五年(一八三四)書写の庄屋名面帳(高田慎二氏所蔵文書)では川瀬恒助。


青木村
あおきむら

[現在地名]大垣市青木町・枝郷えだごう菅野すがの

杭瀬くいせ川左岸、菅野川右岸に位置し、南は池尻いけじり村。村の南端を中山道が通る。「新撰美濃志」によれば、青木刑部卿法印浄憲の先祖は当村出身で、浄憲は土岐・斎藤両氏に仕え、のち織田信長・豊臣秀吉に従ったが、慶長一八年(一六一三)に「大坂の城にて戦死」とある。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高二五八石余。正保郷帳では田高二四二石余・畑高四一石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高三四一石余。


青木村
あおぎむら

[現在地名]多度津町青木

しよう村の西、弘田ひろた川右岸に位置する。寛永国絵図では三井みい郷に属し、寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高八一〇石余、同一八年の山崎領小物成帳には綿一八二匁とある。明和八年(一七七一)の「多度津藩記録」によると田畝四〇町三反余・畑畝二町五反余・居屋敷二町八反余。「西讃府志」によれば租税は米二三二石余・大麦一石余・小麦九斗余・大豆四石余、家数七九・人数三八七(男二〇四・女一八三)、牛一七、要池(漑田三九町余)など池三、泉一。


青木村
あおきむら

[現在地名]富士宮市青木・青木平あおきだいら

安居山あごやま村の北、淀師よどし村の西、潤井うるい川中流右岸の丘陵と平地に立地する。「家忠日記」天正一七年(一五八九)八月晦日条に、富士山で伐り出した木材を「大き」まで引出したとあり、当時「おおき」とよんでいた。寛永改高附帳に青木村とみえ、田方一九九石余・畑方二七七石余。その後南部域が青木村組として分離、元禄郷帳では高三二七石余。国立史料館本元禄郷帳によれば甲斐甲府藩領。


青木村
あおきむら

[現在地名]飯能市青木

高麗こま丘陵の南側、双柳なみやなぎ村の北に位置し、秩父往還(江戸秩父道)が通る。中世には丹党の青木氏が居住したと伝え、小名青木前あおきまえは青木氏が居住した屋敷の前という(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方二三石余・畑方四二石余、幕府領。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高九九石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本雨宮領の相給。「風土記稿」によると化政期には旗本雨宮領、家数二八。


青木村
あおきむら

[現在地名]利根村青木

砂川すながわ村の北、赤城川沿いにあり勢多せた郡に属した。北は片品かたしな川を挟んで利根郡薗原そのはら村。寛文郷帳によると高四一石余(畑方のみ)、沼田藩領。天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)では高二二六石余。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控では高一三石余。元禄一二年(一六九九)の年貢割付状(「わが赤城根村」所収)でも同高、反別一〇町九反余(畑方のみ)、年貢は永六四八文。


青木村
あおきむら

[現在地名]湯浅町青木

別所べつしよ村の東方にあり、村内を山田やまだ川が流れる。東は山田村、南は柳瀬やなせ(現広川町)、北は熊井くまい(現吉備町)。湯浅氏の居城湯浅城跡が村の北部にある。慶長検地高目録によれば村高四二〇石余、小物成九斗七合。天保郷帳では四五〇石余。湯浅組に属し、「続風土記」は家数二六、人数一二二、社寺として若宮八幡宮・太神宮、興福こうふく(西山浄土宗)、浄土真宗西派道場一を記す。


青木村
あおきむら

[現在地名]伊奈村青木

豊躰ぶたい村の西、小貝こかい川東岸に位置。「寛文朱印留」によれば堀田正俊(のち古河藩主)領であったが、享保三年(一七一八)に土浦藩土屋氏領となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高三四五・四四六石。水神すいじん社は祭神水波女命。旧暦九月二九日が例祭日。


青木村
あおきむら

[現在地名]大和村青木

桜川左岸にあり、西は高森たかもり村。弘治二年(一五五六)一一月九日の結城政勝寄進状(高椅神社文書)にある「扇郷」を当地にあてる説がある。慶長六年(一六〇一)に真岡藩領、元和三年(一六一七)に笠間藩領、同八年に豊岡藩領、慶安二年(一六四九)に土浦藩領となり、天和二年―貞享元年(一六八二―八四)は天領、以後は天領に旗本領が加わり、宝永五年(一七〇八)から旗本川副氏の知行地となる(大和村史)


青木村
あおきむら

[現在地名]上越市青木

上中田かみなかだ村の南に位置。建仁三年(一二〇三)九月、武蔵児玉党の小代八郎行平に越後国青木地頭職が幕府から宛行われているが(小代家旧記「肥後国誌」所収)、この青木は当地か。正保国絵図によると高二三二石余。正保三年(一六四六)八月当村のうち八九石三斗余が安藤与七郎に与えられている(「安藤与七郎宛松平光長宛行知行目録」安藤泰樹氏所蔵)


青木村
あおきむら

[現在地名]佐用町上石井かみいしい

美作国吉野よしの郡に属し、同郡下石井村の北、佐用川上流域の谷間に位置。両側の山地は標高四〇〇メートル台。西は同郡西町にしまち(現岡山県大原町)。江戸期の領主の変遷は中山なかやま村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方六六石余・畠方一一二石余、柴林有、芝山有、川荒有と注記される。


青木村
あおぎむら

[現在地名]美作町青木

殿所とのどころ村の北にあり、東は北坂きたさか村。正保郷帳に村名がみえ、田三四石・畑一九石。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一二石余・開高五石余、村位は下。津山藩森氏断絶後は幕府領、元文四年(一七三九)大坂定番丹羽領、明和七年(一七七〇)大坂城代久世領、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政六年(一七九四)播磨龍野藩預、文化一三年(一八一六)津山藩領(美作国郷村支配記)


青木村
あおきむら

船木田ふなきた庄に属した中世の郷村で、多摩川支流の谷地やじ川流域に所在する。同庄は本庄と新庄に分れ、ともに一四世紀半ばには京都東福寺領となった。貞治二年(一三六三)一二月一九日の船木田庄領家方年貢算用状(東福寺文書)に同年「始知行分」として「二貫百文 青木村」とあり、この年から東福寺への年貢納入が開始された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「青木村」の意味・わかりやすい解説

青木〔村〕
あおき

長野県中部,上田盆地の西縁にある村。筑摩山地の浦野川上流域を占め,耕地は少ない。1889年成立。1957年浦里村の一部を編入。村名の由来は,保福寺道と麻績道の分岐点にある杜松が青木と呼ばれることによる。上田盆地と松本盆地を結ぶ要路にあり,平安時代には南西端の保福寺峠を東山道が通った。多くの石仏で知られた修那羅(しょなら)峠,国宝の大法寺三重塔などがあり,伝説に富む。田沢温泉沓掛温泉がある。国道 143号線が通る。面積 57.10km2。人口 4121(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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