大石郷
おおいしごう
現大石一帯に比定される。長浜(現足和田村)から東進した若彦路は、当地を経て大石峠を越え芦川(現芦川村)へ至る。郷内に大石駅があった。小立常在寺所蔵「教機時国教法流布五段鈔」巻末の福徳二年(延徳三年、一四九一)の年紀をもつ覚書に「大石」とみえ、同年六月二日の大雨により被害にあったことが記される。また同年春の彼岸には、当地の浅間宮において立正寺(現勝沼町)による弘通が行われている。「勝山記」永正一三年(一五一六)、大永二年(一五二二)条に「大石与五郎」「大石新七郎」の名がそれぞれみえ、当地の土豪と思われる。弘治元年(一五五五)一一月一九日の神竜寺(現石和町)宛武田晴信印判状(一蓮寺文書)には、「御寺領都留郡之内大石」とあり、当地に一蓮寺(現甲府市)末寺の神竜寺の寺領が存在した。
大石郷
おおしごう
「和名抄」東急本・刊本は「於保之」の訓を付すが、高山寺本に郷名はない。「岡山県通史」は、現上房郡有漢町上有漢に大石の地名のあることからこの地域に当郷を比定し、応永元年(一三九四)仮託の吉備津宮惣解文写(吉備津神社文書)に当郷名のないことから、当郷は早く消滅したとする。だが賀陽郡内に「於保」と読む「生石郷」があり、「大日本地名辞書」などの指摘するようにその重出とみるのが正しく、高山寺本が当郷名をあげていないこともこれを示すものであろう。
大石郷
おおいしごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。遺称地名として平安時代末期から鎌倉期の大石封、戦国期の大石がみえ、現浮羽町大石とその一帯に比定される。延喜五年観世音寺資財帳の山章に観世音寺(現太宰府市)に施入された封戸二〇〇戸の内訳の一部として「筑後国壱佰烟 生葉郡大石郷五十烟、山北郷五十烟」とみえ、大石郷(大石封)全体が観世音寺の封戸として設定されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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