日本歴史地名大系 「小千谷市」の解説 小千谷市おぢやし 面積:一五四・四九平方キロ信濃川の中流域にある。川はここから越後平野に入る。市域の中央をほぼ南から北へ流れ、両岸に河岸段丘をなす。北は三島(さんとう)郡越路(こしじ)町・長岡市、東は古志(こし)郡山古志(やまこし)村、北魚沼郡堀之内(ほりのうち)町・川川(かわぐち)町、南は十日町市・中魚沼郡川西(かわにし)町、西は刈羽郡小国(おぐに)町・三島郡越路町。市域最高峰は北東隅長岡市境、金倉(かなぐら)山(五八一・四メートル)。南東隅の信濃川右岸には高場(たかば)山(三八三・六メートル)や桜峰(さくらずんね)(三七七・一メートル)、南西には北(きた)山(三四四・八メートル)の稜線と北方に続く桐沢(きりさわ)峠(標高三七二・五メートル)がある。市街地は大規模な河岸段丘上にあり、高位から低位までおよそ五段階の平面をなすケスタ地形である。市街地の信濃川東岸には、下流に沿って下越方面と関東とを結ぶ三国街道(現国道一七号)、西岸の市街地からは、高田(たかだ)道が起点となって山地越えで日本海岸の柏崎で北陸道と結ばれる。さらにここからは、信濃川上流に沿って善光寺道(現主要地方道小千谷―千手・十日町線と国道一一七号)で信濃国と結ばれ、下流に沿って長岡への道(現国道三五一号)が走る。また、三国街道と高田道は渡船によって結ばれる。年不詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に「小千屋」、永禄一二年(一五六九)五月一八日の進藤家清書状(伊佐早謙氏蔵)に「おぢ屋」とみえる。〔原始〕遺跡の大部分は信濃川の河岸段丘上にある。市域北部の小粟田の館清水(こおだのたてしみず)遺跡からは先土器時代の石刃が出土したほか、縄文期の遺跡が多い。早期のものは第二・第三段丘に多くみられ、真人(まつと)町芋坂の蟹沢(いもざかのがんぞ)や川井の妙高(かわいのみようこう)寺裏、三仏生の清水上(さぶしようのしみずかみ)からは捺型文などの土器が出土。前期のものは蟹沢、坪野(つぼの)の雪峠(ゆきとうげ)ノ下(した)、川井の本田(ほんでん)に土器片が出土している。中期以降になると遺跡の数も多くみられる。真人町の大平(おおだいら)遺跡は高位段丘に位置し、竪穴住居の集落跡が発見されている。出土した土器には信濃川流域に発達したものが多く、流域文化の交流がうかがわれる。後期のものは段丘の低位に顕著で、規模も大きい。晩期のものも低位段丘にあり、上片貝の明神(かみかたかいのみようじん)出土の土器には東北地方の影響と考えられている瘤文土器がみられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小千谷市」の意味・わかりやすい解説 小千谷〔市〕おぢや 新潟県中部,信濃川の中流域にある市。1954年城川村,千田村の 2村を編入して市制。同年川井村および六日市村,東山村 2村のそれぞれ一部,1955年岩沢村,真人村の 2村,1956年片貝町を編入。南東部に長岡市の飛び地がある。中心市街地の小千谷は河岸段丘上にあり,江戸時代は三国街道の宿場町。信濃川,魚野川の河川交通の要地としても繁栄した。寛文年間(1661~73)から始まった小千谷縮やハゼの実の集散地として,この地方の中心地となった。近代以降も小千谷縮の生産は伝えられ,伝統的に米菓,酒造などの食品工業が盛んであるが,工業団地が造成された結果,主力は半導体,鉄鋼,機械工業に移行した。東部ではニシキゴイの養殖が行なわれ,北部では花火が特産。時水の城跡,国指定重要文化財を有する魚沼神社,妙高寺,サクラの名所船岡公園などがあり,国指定重要無形民俗文化財「牛の角突きの習俗」(→闘牛)を伝える。市域の一部は長岡東山山本山県立自然公園に属する。JR上越線,飯山線,国道17号線などが通り,関越自動車道のインターチェンジがある。面積 155.19km2。人口 3万4096(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by