日本大百科全書(ニッポニカ) 「高田又兵衛」の意味・わかりやすい解説
高田又兵衛
たかだまたべえ
(1589―1671)
近世初期の槍術(そうじゅつ)家、宝蔵院流高田派の祖。伊賀国白樫(しらかし)(三重県伊賀市)の郷士の家に生まれ、初め八兵衛、名は吉次(よしつぐ)、のち崇白と号す。1602年(慶長7)14歳のとき、南都の宝蔵院胤栄(いんえい)の高弟、中村市右衛門直政(尚政)(なおまさ)の門に入り、15年十文字鎌(じゅうもんじかま)術63か条を相伝され、江戸へ出て名声をあげた。23年(元和9)明石(あかし)藩主小笠原忠政(おがさわらただまさ)に仕え、同家の小倉(こくら)移封にしたがい、37年島原の役に功があり、600石を領した。のち進退・屈伸・表裏・悠急・剛柔の10字を説き、法形101か条、巴(ともえ)の術15か条を考案するなど、十文字槍(やり)の哲理を深めた。51年(慶安4)将軍家光(いえみつ)の招きにより、十文字槍の妙技を上覧に供し、褒賞を受けた。吉次に男子4人あり、長男の吉深はゆえあって伊賀へ帰って上野藤堂(とうどう)氏に仕え500石、次男吉和は黒田藩(福岡)に招かれ500石を領し、三男八兵衛吉通、四男弥太郎吉全は小笠原家に仕えて小倉の宗家を維持した。
[渡邉一郎]