近世槍術(そうじゅつ)の主要流派の一つ。十文字鎌槍(かまやり)を本旨としたので、正しくは鎌(かま)宝蔵院槍術という。流祖は奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)宝蔵院の院主、覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういんいんえい)(1521―1607)。胤栄は、興福寺の衆徒、中御門但馬(なかみかどたじま)胤永の次子で、若徒衆(わかかちしゅう)とよばれた青年僧のころから刀槍の術を好み、南都にその人ありと知られ、1563年(永禄6)上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)の来遊を受け、柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)とともに新陰(しんかげ)流兵法を伝授され、また香取神道(かとりしんとう)流系の槍術を大西木春軒(おおにしきしゅんけん)から相伝し、また親交のあった柳生宗厳や穴沢浄見らの協力を得て、十文字鎌槍の操法に独自のくふうを加え、ついに表15か条の形を完成したという。鎌槍は4~5寸(約12~15センチメートル)の鎌を身の盾とし、相手の繰り出す槍先を抑え、あるいは冠(かぶ)り止(ど)め、払い捨て巻落しなど、素槍や管槍(くだやり)に比べて技法上変化に富み、多彩かつ有利な槍として広く用いられるようになった。胤栄は末年、仏門にあって武事をもてあそぶことを本意にあらずとして、後住と決めた19歳の胤舜(いんしゅん)に院中において武芸を習うことを禁じ、すべての武具を高弟の中村市右衛門尚政(なおまさ)に与えたという。尚政はのち越前(えちぜん)の松平忠昌(ただまさ)に仕え、その名技を将軍家光(いえみつ)の台覧すること三度に及んだ(中村派の祖)。尚政の弟子高田又兵衛吉次(またべえよしつぐ)もまた名人の名をほしいままにし、巴(ともえ)の術15か条を発明した(高田派の祖)。一方、2世の禅栄房(ぜんえいぼう)胤舜も師父の禁を冒して、胤栄の遺弟奥蔵院(おうぞういん)の老僧に請うて槍術の修行に専念し、自己のくふうを加えて裏11か条の形を定め、伝授の体系を確立した。胤舜の門弟としては、奥州白河の松平直矩(なおのり)に仕えた下石平右衛門三正(おろしへいえもんみつまさ)(下石派の祖)と、肥後国熊本の細川家に仕えた礒野主馬信元(いそのしゅめのぶもと)(主馬派の祖)が有名であった。以後、3世覚舜房(かくしゅんぼう)胤清、4世覚山房胤風(かくさんぼういんぷう)、5世乗織房胤憲(じょうしょくぼういんけん)ら歴代の院主は道統の発展に努めた結果、その末流は全国に広がった。胤清の弟子で江戸で門戸を張った長尾一入資政(ながおいちにゅうすけまさ)の長尾派、4代胤風の弟子竹村(たけむら)八郎兵衛の高弟伊能宗右衛門由常(いのうそうえもんよしつね)の伊能派、旅川弥右衛門政羽(たびかわやえもんまさつぐ)の旅川流、姉川忠右衛門安知(あねがわちゅうえもんやすとも)の姉川流などがこれである。
[渡邉一郎]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…片側に枝のあるのは片鎌槍といい,両側に枝のあるのを両鎌(もろかま)または十文字というが,十文字槍も鎌の形によって,上向十文字,下向十文字,手違十文字などいろいろの名称がつけられている。十文字槍で有名なものに,宝蔵院流槍術がある。流祖胤栄(いんえい)の月形十文字槍は,月が水面に映るのを見て感得して,直槍に月形の枝槍を加えて一流を考案したといわれる。…
※「宝蔵院流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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