高良神社(読み)こうらじんじや

日本歴史地名大系 「高良神社」の解説

高良神社
こうらじんじや

石清水八幡宮の摂社の一つで、一の鳥居内頓宮南西にある。「山城名勝志」は高良大明神について「諸神記云」として「本宮下十町計(坐)下院南側」と記す。「公衡公記」弘安一一年(一二八八)正月二六日条に後深草上皇の石清水御幸の記事がみえ「於橋西爪下馬、殿上人前、行在極楽寺東南辺、(中略)、北門外、於比所奉舁居御輿、坤向、有高良御遥礼」と記されて、下院極楽寺の南側にあった。社名は、貞観三年(八六一)の行教夢記(宮寺縁事抄)に「川原神」とみえ、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記しまた「カハラ神社」と称したとする。同書は放生会の放魚式が行われた放生ほうじよう川のそばの山裾の小高い所に座したので、河原社と称したといい、のち当地に極楽寺・頓宮などが建てられ河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので同社をここに移したと考えられて、高良の字があてられたと述べる。


高良神社
こうらじんじや

[現在地名]倉石村中市 田茂平

中市なかいちの中心集落の西南に位置する。祭神武内宿禰で、旧村社。明治初年まで毘沙門堂と称したが、廃仏毀釈により現社名に改めたものとみられる。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に毘沙門堂とあり、別当は修験法泉坊で、五戸年行事多門院の配下に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高良神社の言及

【筑後国】より

…また738年(天平10)の財政報告書である当国の正税帳が正倉院に現存する。延喜式内社には三井郡の高良玉垂命神社など4社の名が見えるが,なかでも高良(こうら)神社は筑後一宮として多くの崇敬を集めた。【倉住 靖彦】
【中世】

[鎌倉時代]
 鎌倉幕府の成立とともに東国御家人が守護として入部し,筑後支配にのり出す。…

※「高良神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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