高部村(読み)たかべむら

日本歴史地名大系 「高部村」の解説

高部村
たかべむら

[現在地名]袋井市高尾たかお栄町さかえまち睦町むつみちよう山名町やまなちよう三門町みかどちよう小川町おがわちよう上田町うえだちよう清水町しみずちよう青木町あおきちよう・高尾町

山名郡に所属。袋井宿の南、小笠山おがさやま丘陵の西端部、原野谷はらのや川へ宇刈うがり川が合流し、大きく北東から南西へ蛇行する地点の南に位置する。南部を小笠沢おがさざわ川が流れる。

〔中世〕

山名庄に含まれた。建武元年(一三三四)三月二七日の後醍醐天皇綸旨(本間文書)に「遠江国東方高部郷」とみえ、尾張孫三郎朝宣が本領の高部郷惣領職を後醍醐天皇から安堵されている。同二年五月一二日の惟子内親王家令旨(同文書)によれば、高部郷は後醍醐天皇の皇女惟子内親王家領であったが、内親王家は本間山城兵衛五郎入道覚法に同郷地頭職内知行分を相伝文書に任せて安堵している。本間氏は鎌倉時代得宗被官であった相模国の本間氏と同族といわれ、覚法の子頼久は石野いしの小野田おのだ村を知行している(年未詳九月六日「足利基氏書状」同文書)。応永三年(一三九六)六月一五日、遠江守護今川貞世は高部郷内大塚おおつか田畠を本間修理亮に返付している(「今川貞世書下」同文書)。同年一〇月二〇日貞世は本間楠犬丸に山名庄東方高部郷惣領職などを安堵している(「今川貞世書下」同文書)。本間久季(頼久の孫)は、長禄三年(一四五九)八月遠江の乱の最中当地の慈恩じおん寺において高部郷地頭職証文などを紛失したと上申し、寛正二年(一四六一)八月一八日に某信久から紛失の確認を受けているが(「本間久季紛失状」同文書)、この文書は検討の余地がある。

高部村
たかべむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 高部

諏訪大社上社本宮ほんみや前宮まえみやの中間にあり、上社参道に沿っている。東は安国寺あんこくじ村、北は新井あらい村、西は神宮寺じぐじ(現諏訪市)、南は守屋もりや山麓北東斜面で、村の中ほどから杖突つえつき峠道が通じている。この斜面に神袋塚かんぶくろづか疱瘡神塚ほうそうのかみづか乞食塚こしきづか神長官裏じんちようかんうら古墳等、諏訪大祝及び神長官守矢氏等に関係があると推定される古墳がある。天正六年(一五七八)二月の上諏訪造宮帳に「一下馬之宝殿去丙被仰出御(帳)、神宮寺・高(部)以棟別銭宝殿立申候。

高部村
たかべむら

[現在地名]豊富村高部

浅利あさり村の東、笛吹川の左岸に位置する。同村との境を南方の山地から浅利川が北流して笛吹川に注ぐ。東は七覚しつかく川がほぼ北流して笛吹川に注ぎ、対岸は下曾根しもそね村・下向山しもむこうやま(現中道町)。北部が笛吹川河岸の低湿地で、南部は木原きはら村から延びる丘陵部となっている。小村に宇山うやま角川かどがわがある(甲斐国志)。慶長古高帳に村名がみえ、幕府領。貞享二年采地簿(臆乗鈔)によると旗本布施・江原および大窪(大久保)三氏の知行地がある。大久保氏は寛永一一年に知行を与えられた(寛政重修諸家譜)。元禄郷帳では大久保・布施・江原の各知行および法久ほうきゆう寺領とある。慶長古高帳では高三八七石余、ほかに法久寺領一石余。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳によれば高四二八石余。

高部村
たかべむら

[現在地名]今治市高部

現今治市北部に位置する。箱潟はこがた湾に面して背後に近見ちかみ(二四三・七メートル)をひかえ、この間の台地に発達した集落である。東は大浜おおはま村、西は杣田そまだ村、南は石井いしい村、北は波止浜はしはま町に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「高部村 日損所、芝山有、林少有」とみえ、村高は三六六石八斗六升二合である。

高部村
たかぶむら

[現在地名]美和村高部

村の南北に尺丈しやくじよう山などの山があり、川が尺丈山に発する和田わだ川を合せて村内を西から東へ流れ、肥沃な河岸段丘を形成する。東は上檜沢かみひざわ村。佐竹知行目録(彰考館蔵)の天正元年(一五七三)の項に「一、高部入江ノ庄 高部駿河守」とみえ、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「高部」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「高部村」とみえる。

高部村
たかべむら

[現在地名]東庄町高部

窪野谷くぼのや村の北東に位置する。正保二年(一六四五)の須賀山村絵図(多田家蔵)に村名がみえる。「寛文朱印留」では下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四二五石余で、旗本成瀬・青山領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報