豊富村(読み)とよとみむら

日本歴史地名大系 「豊富村」の解説

豊富村
とよとみむら

面積:一三・五〇平方キロ

東八代郡の西部、甲府盆地の南部に位置する。北は笛吹川を境に中巨摩郡玉穂たまほ町、西から南は御坂みさか山地の尾根によって西八代郡三珠みたま町、東は南東の山地から流れ出る七覚しつかく川をほぼ境として中道なかみち町と接する。地域はおおまかに三分することができ、南部は御坂山地の西部、中部は曾根そね丘陵部、北部は笛吹川河岸の低地からなる。南域の山地からは谷坂やさか川・大森おおもり川・なか川・みなみ川などが流れ出て浅利あさり川となり、浅利川は地内中央をほぼ北流して笛吹川に注いでいる。北から笛吹川を渡った県道甲府―玉穂―中道線が浅利川沿いに地内を縦断し、同川上流域の関原せきはら辺りで東折して中道町へ抜ける。

旧石器時代の遺物が関原の弥二郎やじろう遺跡にみられる。縄文時代中期の遺跡は大鳥居の横畑おおとりいのよこばたけ遺跡や木原の駒平きはらのこまだいら遺跡、後期までに及ぶ遺跡は高部宇山平たかべうやまだいら遺跡などのほか、丘陵上に多く分布がみられる。弥生時代後期の遺跡に弥二郎遺跡や古墳時代まで続く高部宇山平遺跡などがある。笛吹川左岸の丘陵上の最高所に築造された王塚おうづか古墳は五世紀の帆立貝形の前方後円墳である。

豊富村
とよとみむら

[現在地名]天塩郡豊富町字かみさろべつ・字かみサロベツ原野げんや・字しもエベコロベツ・字メナシベツ・字目梨別めなしべつ・字メナシベツ原野げんや・字アチャルペシペ・字阿沙流あさる・字芦川あしかわ・字有明ありあけ・字落合おちあい・字温泉おんせん・字開源かいげん・字兜沼かぶとぬま・字兜沼中央かぶとぬまちゆうおう・字兜沼西かぶとぬまにし・字兜沼東かぶとぬまひがし・字修徳しゆうとく・字新生しんせい・字清明せいめい・字徳満とくみつ・字徳満駅前とくみつえきまえ・字豊里とよさと・字豊富・字豊富温泉とよとみおんせん・字豊幌とよほろ・字中豊富なかとよとみ・字西豊富にしとよとみ・字沼向ぬまむかい・字東豊富ひがしとよとみ・字福永ふくなが・字豊栄ほうえい・字豊田ほうでん・字豊徳とよとく・字幌加ほろか・字本流ほんりゆう・字瑞穂東みずほひがし・字瑞穂南みずほみなみ・字稚咲内わかさかない

昭和一五年(一九四〇)から同三四年まで存続した天塩郡の村。

豊富村
とよとみむら

[現在地名]車力村豊富

屏風山びようぶさん砂丘の東の末端に位置し、北は富萢とみやち村、南は車力村へ続く。

嘉永五年―安政三年(一八五二―五六)に開拓された村で(西津軽郡史)、木造新田に属する。嘉永七年一一代藩主津軽順承が開発状況を視察した際に庄屋へ与えた書状(車力村史)に「木作組千貫崎新村御取立之村名豊富御自筆被下置」とある。菅江真澄は千貫崎せんがんざきの地名の由来について「山路めける砂原をゆく左に、松のむらだてる処を千貫崎といひて、そのかみは家居あまたいらかをならべてありたる頃、かほよき女を千貫の銭にかへて、こゝにすへたりしなど、行つるゝ人の語るを聞つゝ至る」(外浜奇勝)と記しているが、中世の十三とさ(現北津軽郡市浦村)の補助港として栄えた頃の名残であるとする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報