日本歴史地名大系 「魚梁瀬村」の解説 魚梁瀬村やなせむら 高知県:安芸郡馬路村魚梁瀬村[現在地名]馬路村魚梁瀬馬路六ヵ村の北東、奈半利(なはり)川上流域を占める広域の村で、四周を標高一〇〇〇メートル前後の山々に囲まれる。北は阿波国に接し、名木として知られる魚梁瀬杉の生育する千本(せんぼん)山(一〇八四・四メートル)から流れる西(にし)川と中(なか)川との合流点より、奈半利川を一里ほど南に下った辺りに集落がある。馬路村より魚梁瀬への往還は、安田(やすだ)川の支流中(なか)ノ川をさかのぼり、川平(かわひら)より境(さかい)峠を越え枝村の谷山(たにやま)村を経る四里の道であるが、東方へは山越えで竹屋敷(たけやしき)村(現北川村)に至り、吹越(ふきこし)峠を越えて阿波国宍喰(ししくい)へも出られた。北川(きたがわ)村和田(わだ)の妙楽寺の寛治六年(一〇九二)八月六日の奥書のある文書に、北川郷の四至を記して「右ヨリ西ヘヨリ、石神ノ尾、明善ノヌチクヒ、白カシ山カキリ、北川柳瀬堺」とあるが、この年号には疑問も多い。ただ古く「柳瀬」と記したことは、「高辻帳ノ内古新文字等替」(皆山集)に「中比ハ柳ノ字ヲ用、元禄十三年より魚梁ニ改、是ハ先国主長宗我部検地帳之文字ニ而候故、国絵図・郷村帳ニ右之通書改申候」とあることでもわかる。伝承によれば壇之浦の合戦で敗れた能登守平教経が阿波祖谷山(いややま)に入り、さらに危険を避けてこの地に居住したという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報