馬路村(読み)うまじむら

日本歴史地名大系 「馬路村」の解説

馬路村
うまじむら

[現在地名]亀岡市馬路町 馬路

亀岡盆地の大堰おおい川左岸北部の低地に位置し、北は池尻いけじり村、東は出雲いずも村・なか村、南は河原尻かわらじ村、西は大堰川が南北に流れる。保津ほづ村・河原尻村と並ぶ大村。

建武四年(一三三七)五月二二日の寄進状(出雲神社文書)に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

村の東部は段丘となっており、その端に保津・毘沙門びしやもんから国分寺跡と御上人林おしようにんばやし廃寺跡(国分尼寺跡推定地)の間を北上してきた古代の山陰道と推定される道が通じていたと考えられている。河原尻・中・馬路三村の接する辺りを三日市みつかいちといい、ここからは縄文式土器が発見され、また古代の瓦片・土師器片が多数発見され古代寺院の所在が推定されている。三日市の北には丹波地方最大で濠の跡もはっきり残る車塚くるまづか古墳もある。このようなことから三日市辺りは丹波の古代文化中枢の一角を占めていたと思われる。また三日市は元馬路もとうまじともいわれ、馬路村の集落は初めここにあり、西方低地の開発に伴って現在地に移ったと伝えられる。したがって開発はかなり古いといえるが、中世以前についてはほとんどわからない。

元和元年(一六一五)幕府領となり、元禄一一年(一六九八)旗本杉浦内蔵允知行地となる。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」に、高一千五〇〇石、戸数三五〇、旗本杉浦出雲守知行地、五穀は上品で、ことに大納言小豆は佳品と記す。

「丹波志桑田記」(享和年間の成立か)

<資料は省略されています>

と記す。侍分は保津・河原尻が五姓で五苗ごみようとよばれるのに対し、馬路村は両苗りようみよう(人見・中川)という。

馬路村
うまじむら

[現在地名]馬路村馬路

安芸郡のほぼ中央部、かね竜森りゆうもり(一一二五・七メートル)西麓の安田やすだ川上流部に位置し、東岸の段丘にかげ朝日出あさひで、西岸の段丘に日浦ひうら西谷にしだに市谷いちだに平瀬ひらせの集落がある。安田川河口の安田村(現安田町)へは、日浦より西南方の馬路峠を越えて日々入ひびいり(現安田町)に出る道があり、北東の魚梁瀬やなせ村へは安田川支流のなかノ川をさかのぼり、さかい峠を越えた。江戸時代には、安田川上流とその支流域にある馬路・相那あいな土川つちかわ東川ひがしごうなかかわ川平かわひらの六ヵ村を総称して馬路村という場合も多く、庄屋一人が老一人と名本を置いて統括した。なお江戸時代後期には日浦(日裏)・影・朝日出(朝出)の三村に分割する場合もあった。

伝承によれば、馬路村一帯は陸奥岩城いわき城主民部大輔平由隆の一六代の孫平隆長が、保元の乱に敗れこの地にたどりついて開拓したのに始まるという。戦国時代末期には馬路氏を名乗る武将がおり、永禄一二年(一五六九)の安芸氏と長宗我部氏との合戦には、馬路蔵人が安芸国虎に味方して戦っている(土佐物語)

馬路村
うまじむら

面積:一六五・〇七平方キロ

安芸郡の東北部に位置し、西は安芸市、南は安田やすだ町・北川きたがわ村、東は徳島県海部かいふ宍喰ししくい町・海南かいなん町、北は徳島県那賀なか木頭きとう村に接する。集落は安田川上流域の馬路地区と奈半利なはり川上流部の魚梁瀬やなせ地区に分れるが、全面積の九四・五パーセントが山林で、耕地は少ない。稗巳屋ひえごや(一二二八・三メートル)天狗森てんぐもり(一二九五・四メートル)綾木森あやきがもり(一一四〇・五メートル)などから流れ出る水を集めて村の西部を南流する安田川は、村の南部でなかノ川、ひがし川を合して南流、安田町を経て土佐湾に注ぐ。

馬路村
うまじむら

[現在地名]池田町馬路

吉野川の支流馬路川の両岸、雲辺寺うんぺんじ山の南斜面に位置。東は白地はくち村、南は山城やましろ(現山城町)、西は佐野さの村。讃岐との国境に近い。馬地村とも記された。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「馬地」とみえる。慶長二年の分限帳によると高二三四石余が牛田掃部助の知行。寛永一八年(一六四一)の忠英様御代両国内寺領社領等支配帳によれば在郷侍の政所藤右衛門が一五石を知行している。正保国絵図では馬地村として高六八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方四九石余・畠方一九石余で芝山・小はへ山の注記がある。同三年の検地帳(佐馬地村誌歴史)では田一五町余・高一九七石余、畑三六町六反余・高六四石余、上毛高六石余。延宝二年(一六七四)の棟付帳(田村家文書)では家数一〇二・男二七八、高二三三石余。

馬路村
まじむら

[現在地名]仁摩町馬路町

天河内あまごうち村の南に位置し、西は日本海に面して馬路浦がある。山陰道が通る。地内に字宇福うふくがあり、大治元年(一一二六)六月一九日の石見国司庁宣(久利文書)に、久利くり仁満にま雨河内あまごうちの三ヵ郷の西境として「宇福浜小河寺」とみえる。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文には、大家おおえ庄のうちとして「(うカ)ふく 三丁三反小」とみえる。元亀元年(一五七〇)毛利氏は温泉津ゆのつ(現温泉津町)鵜丸うのまる城を築いた際、「礒武・馬路・神護」に七杖分を築くよう命じている(二月二〇日「鵜丸城普請賦帳」閥閲録)。正保国絵図に馬路村とみえ、高一六五石余。別に馬路浦が記されている。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方一一七石余・畑方四八石余、年貢高は米五二石余・銀三七六匁余、小物成は水夫二人役銀八匁・釣船役銀一〇匁・塩浜役銀三匁・藪役銀一六匁余。

馬路村
まじむら

[現在地名]豊岡市栄町さかえまち

南谷みなみだに村の北東、鎌谷かまたに川の支流馬路川の谷に立地。東は馬地まじ峠を経て丹後国熊野くまの奥馬地おくまじ(現京都府久美浜町)に至る。江戸時代の領主の変遷は駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高六六石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。

馬路村
うまじむら

[現在地名]相生町馬路

谷内たにうち村の北にあり、谷内川に注ぐ小流沿いに集落が形成されている。北方に竜王りゆうおう(七三二・一メートル)がそびえ、馬路峠がある。江戸時代初期の国絵図類、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳、天保郷帳にはみえない。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)に村名がみえ、人数六三(男二八・女三五)。文化九年(一八一二)の郡村仮名附帳(鷲敷町史)には、当村は仁宇にう(現鷲敷町)の枝郷として書上げられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「馬路村」の意味・わかりやすい解説

馬路〔村〕
うまじ

高知県東部,奈半利川,安田川の上流域にある村。高知県内の最多降雨地で,魚梁瀬 (やなせ) 国有林のスギの天然林で知られ,特に千本山のスギ林は有名。杉工芸品,ユズ,シイタケは特産。 1965年,魚梁瀬ダム建設に伴い,集落は湖畔の丸山台に移転した。付近一帯は魚梁瀬県立自然公園に属する。面積 165.48km2。人口 745(2020)。

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事典 日本の地域遺産 「馬路村」の解説

馬路村

(高知県安芸郡馬路村)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
馬路村は高知県の東部に位置し、徳島県境隣接市町村とは標高1000m級の山岳によって隔てられている。杉の産地として知られ、魚梁瀬の千本杉は美林として有名。総面積の97%が山林で、内75%を国有林が占める。村の基幹産業は林業と農業

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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