日本歴史地名大系 「鰺坂庄」の解説 鰺坂庄あじさかのしよう 福岡県:小郡市鰺坂庄筑後国御井(みい)郡に置かれていた京都宝荘厳(ほうしようごん)院領庄園。領家は四条家。現小郡市南部の鰺坂地区から久留米市北部にかけての一帯に比定される。鰺坂のほか味坂と記され、南北朝期に「あちさかのしやう」とある(正平一二年三月二七日「高良講師契約状案」梅津文書/南北朝遺文(九州編)四)。建仁元年(一二〇一)「鰺坂庄」四〇〇町などに高良(こうら)社(現久留米市)下宮の宝殿一宇の造営役が賦課されているが、うち一八四町が三原(みはら)郡内、二一六町が河北(かわきた)郷内となっている(高良宮造営田数注文)。建保三年(一二一五)鰺坂下司助秀が他国の田楽法師を招いて獅子を舞わせたため、父副より三潴(みづま)・鰺坂両庄獅子勾当職をついだ美麗法師が訴え、もとのように美麗法師が獅子勾当職に任じられている(同年一二月二六日「法橋某下文案」梅津文書/鎌倉遺文四)。美麗一族は大善(だいぜん)寺玉垂(たまたれ)宮(現久留米市)・若宮の田楽座を運営していた芸能集団。承久三年(一二二一)九月二八日の高良社定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)では仁王講衆一三口のうち定蓮房定西に与えられた料田一町として「鰺空閑」とあり、のちの古閑(こが)(現久留米市)に比定される。仁治二年(一二四一)三潴庄領家が西牟田(にしむた)村(現筑後市など)名主行西の要請に応じて同村内の荒地五町を阿弥陀堂・観音堂の敷地および免田とするよう三潴・鰺坂両庄に命じている(同年七月日「三潴庄領家下文」寛元寺文書/鎌倉遺文八)。永仁四年(一二九六)庄内の永松(ながまつ)・稲吉(いなよし)が庄鎮守大善(だいぜん)寺玉垂宮の五月会流鏑馬役など恒例神事諸役を奉仕し、また同社の回廊畳三〇帖と楼門の造営を負担することを定めている(同年一二月日「玉垂宮大善寺神事注文写」隈家文書/鎌倉遺文二五)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報