鳥谷部春汀(読み)トヤベ シュンテイ

20世紀日本人名事典 「鳥谷部春汀」の解説

鳥谷部 春汀
トヤベ シュンテイ

明治期のジャーナリスト,評論家 博文館「太陽」主幹;報知新聞主筆。



生年
元治2年3月3日(1865年)

没年
明治41(1908)年12月21日

出生地
陸奥国三戸郡五戸村(青森県五戸町)

本名
鳥谷部 銑太郎

旧姓(旧名)
木村

学歴〔年〕
青森専門学校農芸科卒,東京専門学校(現・早稲田大学)英語普通科〔明治23年〕・英語科〔明治24年〕卒

経歴
五戸小学校卒業後、小学助教。明治15年上京、清国渡航を企てたが失敗。東京専門学校卒業後島田三郎に認められ、25年毎日新聞社記者となり、社説執筆。27年退社、近衛篤麿公爵の機関誌「精神」(のち「明治評論」と改題)を経営、人物月旦を執筆。30年博文館に招かれ雑誌「太陽」記者。33年報知新聞主筆、35年博文館に戻り「太陽」主幹。特に人物評論に独自の地位を確立した。著書に「東洋治安策」「通俗政治汎論」「明治人物評論」「続明治人物評論」「明治人物小観」「時代人物月旦」など。のち「春汀全集」(全3巻 博文館)に収録。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「鳥谷部春汀」の意味・わかりやすい解説

鳥谷部春汀 (とやべしゅんてい)
生没年:1865-1908(慶応1-明治41)

明治期のジャーナリスト,評論家。青森県三戸郡五戸町出身。本名銑太郎。東京専門学校(現,早稲田大学)卒業後,1892年島田三郎に認められ毎日新聞記者となる。近衛篤麿の知遇を得て,95年雑誌《精神》の主幹となり,後に彼の文筆活動の本領となる〈人物月旦〉をはじめる。その後《太陽》《報知新聞》の記者を経て,1902年再び《太陽》に戻り,これを主宰する。みずからの好憎によって筆をまげることのない公平な人物評論によって,〈春汀即人物評論,人物評論即春汀〉との印象を強くした。著書に《明治人物月旦》(正・続)ほかがあり,《春汀全集》(全3巻)に収められている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「鳥谷部春汀」の解説

鳥谷部春汀

没年:明治41.12.21(1908)
生年:慶応1.3.3(1865.3.29)
明治時代のジャーナリスト。陸奥国(青森県)三戸郡五戸村蛯川生まれ。本名・銑太郎。父は盛岡藩士木村忠治,母りわ子。母方の鳥谷部を継ぐ。青森専門学校農芸科卒業後,小学校教諭を経て,明治24(1891)年東京専門学校(早稲田大学)英語科,政治科を卒業。25年,島田三郎の毎日新聞社に入社。28年から『精神』(のち『明治評論』)の編集・経営に当たった。30年,博文館に入り,雑誌『太陽』の記者となった。その後,一時期『報知新聞』に在籍したが,晩年まで『太陽』の編集に携わった。特に,人物評論の分野で活躍した。<著作>『春汀全集』全3巻<参考文献>木村毅編『明治人物論集』(明治文学全集92巻)

(井川充雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鳥谷部春汀」の解説

鳥谷部春汀 とやべ-しゅんてい

1865-1908 明治時代のジャーナリスト。
元治(げんじ)2年3月3日生まれ。島田三郎が社長の「毎日新聞」記者をへて,明治28年近衛篤麿(このえ-あつまろ)の「精神」(のち「明治評論」)主幹。30年博文館にうつり,雑誌「太陽」で人物評論を担当し,好評をえた。明治41年12月21日死去。44歳。陸奥(むつ)三戸郡(青森県)出身。東京専門学校(現早大)卒。旧姓は木村。本名は銑太郎。著作に「明治人物評論」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「鳥谷部春汀」の解説

鳥谷部 春汀 (とやべ しゅんてい)

生年月日:1865年3月3日
明治時代の評論家;ジャーナリスト
1908年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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