明治時代の政治家。文久(ぶんきゅう)3年6月26日、忠房(ただふさ)の長男として京都に生まれる。母は島津久光(しまづひさみつ)の女(むすめ)光子。霞山(かざん)と号した。1873年(明治6)家督相続。1877年侍従職に任ぜられ、東京に移る。以後鮫島武之助(さめじまたけのすけ)の塾、大学予備門などに学ぶ。1884年公爵。翌年海外留学、ボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。1890年帰国、貴族院議員(1896~1903貴族院議長)。1895年より学習院長。1903年(明治36)枢密顧問官。日清(にっしん)戦争直前の硬六派運動に参加して以後対外硬派として活動し、1898年には東亜同文会、1900年(明治33)には国民同盟会を組織し、「朝鮮扶掖(ふえき)・支那(しな)保全」を唱えた。明治37年1月2日没。嗣子(しし)は文麿(ふみまろ)。
[酒田正敏]
『霞山会編・刊『近衛霞山公』(1924)』▽『近衛篤麿日記刊行会編『近衛篤麿日記』(1968・鹿島研究所出版会)』▽『工藤武重著『伝記叢書258 近衛篤麿公――伝記・近衛篤麿』(1997・大空社)』▽『山本茂樹著『近衛篤麿――その明治国家観とアジア観』(2001・ミネルヴァ書房)』
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明治期の政治家。近衛忠房の長子に生まれ,1873年幼少にして家督をつぎ,84年華族令制定にともない公爵となる。85-90年渡欧し,ボン大学,ライプチヒ大学に学んだ。第1議会以来貴族院議員となり三曜会の中心的指導者であった。93年末に現行条約励行建議案のために衆議院が解散されると貴族院有志とともに伊藤博文首相に忠告書を送り,民間の〈硬六派〉(立憲改進党,国民協会,同志俱楽部,同盟俱楽部,大日本協会,政務調査会)の運動を支持した。95年学習院院長,96年貴族院議長となる。日清戦争以後は,ロシアの満州進出を日本の脅威と考え,東亜同文会の会長として〈日清同盟〉論を唱え,義和団事件に際してのロシアの満州占領に抗議する国民同盟会の実質上の会長となった。一方で,大津事件(1891),選挙干渉問題(1892)で第1次松方正義内閣を糾弾するなど,藩閥政府には批判的で,政党とくに進歩党,憲政本党に好意的立場をとった。文麿,秀麿はその子である。
執筆者:坂野 潤治
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(酒田正敏)
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…この間,東邦協会,国家経済会,社会問題研究会,東亜同文会,国民同盟会などに参加する。1901年には近衛篤麿に従い清・韓を視察するが,このころから近衛との関係が親密化し,谷との関係がそれだけ疎遠となる。03年半ばより約7ヵ月欧州を漫遊した。…
…日露戦争前,貴族院議長近衛篤麿らが対露強硬の世論を巻き起こすため結成した国家主義団体。日清戦争後,日本の中国への勢力拡張をはかるため東亜同文会を組織していた近衛篤麿は,義和団鎮圧後も満州占領を続けるロシアに対抗するため,頭山満,佐々友房,犬養毅,長谷場純孝,柴四朗らと相談し,〈支那保全,朝鮮擁護〉を目的とする国民運動の展開を企て,1900年9月24日上野精養軒で国民同盟会を結成した。…
…日露戦争に際して,対露強硬論を主張した国家主義団体。義和団事件後,ロシアの満州駐兵に反対して近衛篤麿らは国民同盟会を組織したが,1902年4月12日〈満州還付に関する露清協約〉が調印されたのを機として解散した。しかし,ロシア軍の満州からの第2期の撤兵が実行されないことが明らかになると,再び活動を活発化させ,03年4月8日,対外硬同志大会を上野公園梅川楼で開催,さらに戸水寛人ら7博士の対露開戦の主張(七博士建白事件)などが行われるなかで,同年8月9日,対外硬同志会は神田錦旗館で大会を開き,対露同志会と改称した。…
…1898年7月に東亜会と同文会が合流して成立,1900年には亜細亜協会を吸収,初代会長を近衛篤麿(貴族院議長,公爵)とし,会の中堅には荒尾精の日清貿易研究所(1890年,上海に設立)の門下が多い。会の三大事業は第1が《東亜時論》誌(1898‐99年の1年間),《東亜同文会報告》誌(1899‐1910年まで132号),《支那》誌(1911‐44年,36巻432号)とつづく時論誌の刊行,第2が東亜同文書院生による実地踏査記録をまとめた《支那省別全誌》(1920年に全18巻本)の編集・刊行,第3が東亜同文書院という学校(上海)の経営(1901年第1期生入学,39年大学昇格,45年廃校)である。…
…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…
※「近衛篤麿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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