日本歴史地名大系 「鵤村」の解説 鵤村いかるがむら 兵庫県:揖保郡太子町鵤村[現在地名]太子町鵤林田(はやしだ)川中流左岸に位置し、南部を東西に山陽道が通る。斑鳩(いかるが)村とも記し、堀内(ほりのうち)村とも称した。永禄五年(一五六二)の斑鳩寺三重塔の露盤銘に斑鳩村とみえる。天正九年(一五八一)三月一八日の羽柴秀吉寺領寄進状(斑鳩寺文書)では寺内(てらうち)村高一五〇石を斑鳩寺へ寄進しているが、これは当村と思われる。慶長国絵図には「井かるが」とみえ、南隣に「同ほりノ内」が記される。慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)に鵤庄と肩書されて堀内村がみえ、同一三年の高九五〇石余、ほかに太子(天台宗斑鳩寺)領高二三六石余。斑鳩寺記録(斑鳩寺文書)の寛文五年(一六六五)条には堀内村とあるが、同一二年条以後は鵤村となっている。元和三年(一六一七)鵤藩(寛永四年から新宮藩)領と龍野藩領の相給となる。 鵤村いかるがむら 三重県:四日市市北部地区鵤村[現在地名]四日市市南(みなみ)いかるが町・別名(べつめい)五―六丁目・羽津(はづ)・羽津甲(はづこう)米洗(よない)川の北岸にあり、西は低い丘陵、東に茂福(もちぶく)村。「神鳳鈔」に「鵤御厨三丁」と出る。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写には「五石三斗 建国寺 いかるか」とみえる。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降忍(おし)(現行田市)藩領、その後幕府領、再び忍藩領と変遷。宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば戸数四四、人数は男一二〇・女一〇五の計二二五。馬一。助馬金として馬一疋八厘四毛四勺に相当する金を出している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by