長泉寺(読み)ちようせんじ

日本歴史地名大系 「長泉寺」の解説

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]鶴岡市錦町

東西に走る国道七号の北側、大道だいどう堰の北側にある。天徳山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、大宝二年(七〇二)天台宗寺院として越智山泰澄を開基に創建され、康永三年(一三四四)遊行七代託阿により遊行道場として中興されたという。時宗への改宗は文和三年(一三五四)ともされる。元亀四年(一五七三)九月七日には武藤義氏から勝福寺しようふくじ村一千刈を本領として寄進され(「武藤義氏寄進状」長泉寺文書)殿内島とのじま六〇〇刈、荒俣あらまた(現東田川郡藤島町)の畠一貫文の地、大宝寺だいほうじの町に寺屋敷一軒を安堵(「武藤義氏安堵状」同文書)、天正一九年(一五九一)一一月二三日には直江兼続より(海老)しま村のうち二〇石を寄せられたとされるが(「直江兼続寄進状写」同文書)、いずれも検討の余地がある。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]児玉町高柳

小山こやま(身馴川)北岸の低い山間部に位置する。大用山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦三尊。伊豆国賀茂かも宮上みやかみ(現静岡県中伊豆町)最勝さいしよう院末であった。文正元年(一四六六)最勝院から来錫した大洞存開山として、文明三年(一四七一)関東管領上杉顕定が開基したと伝える。戦国期に当地は甲斐武田氏と小田原北条氏の相克の地ともなり、永禄一二年(一五六九)武蔵進攻を図る武田氏は、一一月一九日に「武州長泉寺」に高札(長泉寺文書)を発給し、寺中における武田方軍勢の乱妨狼藉を禁じている。また元亀元年(一五七〇)八月一〇日には当地方の領国化を図る鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦が当寺に制札(同文書)を掲げ、寺中・門前などにおける殺生禁断・竹木伐取禁止を定めている。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]新郷村戸来 金ヶ沢

金ヶ沢かねがさわの中ほどの高台に位置する。金沢山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。藩政期末の南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)に「一(無禄) 同寺(八戸法光寺)末寺五戸戸来村 金沢山長泉寺」とある。明応五年(一四九六)の草創で、開基は戸来又左衛門、開山は法光ほうこう(現名川町)二世安葩昌舜という(新撰陸奥国誌)。中興開基は戸来又左衛門国秀とされるが、国秀は参考諸家系図(岩手県盛岡市中央公民館蔵)によると、寛永六年(一六二九)に家督を継いでいることから、この頃に中興したものとみられる。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]大方町入野 町

入野松原いりののまつばらの北に接するまち集落にある。大方山と号し臨済宗妙心寺派、本尊千手観音。明治四年(一八七一)廃寺となるまでは入野本村いりのほんむらにあったが、同一三年京都妙心寺を本山として現在地に再興された。開創時期などについては不詳だが、「南路志」は開山夢窓国師、中興は風山とする。「幡多郡誌」は「口碑に曰く、往昔当寺所在の地白鳳の変に海となり、住僧某本尊を携へ入野村に来り一宇を建立す」とする。「南路志」所引の棟札銘に「永享元酉年六月大方山長泉禅寺大檀那但馬守宗忠現住長」とあることと、鎌倉時代の仏像二躯を伝えるところから、鎌倉時代に創建され、室町時代に再興されたとも考えられる。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]須玉町若神子

湯沢山と号し、本尊阿弥陀如来。時宗。創建年代は未詳だが、慶応四年(一八六八)に提出された由緒書(寺記)によれば、武田義清が病気になったとき境内の熊野権現社中から湧き出た温泉に入り平癒したため、開基となり建立したという。もとは真言宗で、のちに遊行二祖他阿真教を開山として時宗へ改宗した。文和三年(一三五四)には遊行八代渡船が当寺に立寄っており(遊行八代渡船上人廻国記)、永正一七年(一五二〇)九月一日、二四代不外は村山むらやま(現高根町)の日向図書助を檀那として当寺で踊り念仏を興行している(遊行二十四祖御修行記)。天正一一年(一五八三)四月二〇日、徳川家康印判状(長泉寺文書)で若神子内五貫文が安堵され、慶長八年(一六〇三)には徳川家四奉行の判物(寺記)で寺領として若神子内で七石二斗が、境内・門前一千七七六坪とともに認められた。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]石川町 高田

北須きたす川の西岸に位置する。高源山と号し、曹洞宗。本尊は地蔵菩薩。永享八年(一四三六)即庵の開山(日本洞上聯灯録)。「石川氏一千年史」や由緒記録帳(石川町史)などによると三蘆みよし城主石川持光が即庵を招き、すでにあった地蔵院を長泉寺と改め、岩峰がんぽう(現玉川村)から牌所を移して石川氏の菩提寺としたという。かつては法伝ほうでん(現平田村)をはじめ多数の末寺を有していた。天正一八年(一五九〇)奥羽仕置により石川昭光は三蘆城を去り、のちに陸奥伊具いぐ郡角田に移ると、慶長三年(一五九八)同地に新たに長泉寺を建て、同行していた泰然を住職とした。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]平戸市前津吉町

神上かみあげ集落の西手にある。徳雲山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。永享二年(一四三〇)頃、地頭の津吉氏(道泉)を開基として創建されたと伝える(平戸市史)。同氏は松浦党の祖という源久の子孫で、松浦四八党の一人とされ、平戸島南部を勢力下に置いたが、文安四年(一四四七)に死去。長禄元年(一四五七)平戸松浦氏の松浦弘定(覚翁)が出家して斉宝玄公と改め、伽藍を建立したという。このとき瑞雲ずいうん寺四世の勝山景最の法嗣天性強益を開山として招き、徳雲山長福ちようふく寺とした。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]伊予市宮下

医王山瑠璃光院長泉寺という。真言宗智山派、本尊は十一面観音。「予陽郡郷俚諺集」に、

<資料は省略されています>

と記す。建造物は本堂と庫裏にすぎないが、樹齢数百年と思われる境内の松の老木や、本尊開帳云々の記事にみても古刹であると知れる。後藤又兵衛基次の落去伝説はこの地方では有名で、長泉寺の住職であった伯父を頼って来たとしている。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]上三川町上三川 上町

善応ぜんのう寺の北方、上三川城の旧城域北に位置する。曹洞宗。瑞竜山祖心院と号する。本尊は十一面観音、県内でも珍しい坐像形式で鎌倉期の作。永正元年(一五〇四)今泉盛朝の開基、開山はのちに本寺となる宇都宮成高じようこう寺の第四世天英祥貞。寺号は「今泉」をかたどり「長泉」としたという。慶長二年(一五九七)宇都宮氏の継嗣問題によって今泉氏が断絶し荒廃した(下野国誌)。同九年寺領七石を寄進され(「伊奈忠次寄進状」長泉寺文書、ただし宛名は後筆)、元和二年(一六一六)烏山藩主成田氏宗が再び開基となり堂宇を再建、翌年中三河村のうちの三〇石を寄進され復興した(「成田氏宗寄進状」同文書)

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]堺市新在家町東四丁

大安だいあん寺の北東に位置し、浄土宗、山号天竜山玉光院、本尊阿弥陀如来。縁起によると文亀元年(一五〇一)恩冏衆徳が開基。衆徳は熊野権現の化身といわれ、また北十萬きたじゆうまんを開創したことから当寺を南十萬みなみじゆうまんと通称する。本尊は東大寺の学僧然が永観二年(九八四)宋から帰国した際所持していたものと伝え、当寺一〇世然蓮社宛誉が当所へ移したという。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]小浜市加茂 高屋

現福井県上中町玉置たまきに隣接した山裾にある。高森山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。長泉寺由緒記によれば、応永一四年(一四〇七)若狭守護一色満範が加茂かも村の高森たかもりに創建し、一色氏に代わった武田氏の被官白井清胤が、永正四年(一五〇七)に賀茂荘半済給主となって館を建てるため現在地へ移して保護したと伝える。武田氏滅亡ののち天正年中(一五七三―九二)佐柿国吉さがきくによし(現福井県美浜町)城主粟屋勝久の一族日昇本光を開祖として、浄土宗の当寺を曹洞宗に改めたという。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]戸倉町内川

曹洞宗。埴生村満照寺末。本尊釈迦如来。

県宝「木造聖観音坐像」がある。これはもと水内みのち戸隠神社の奥院本地仏として彫造されたものだが、神仏分離で同神社より長泉寺へ移された。

長泉寺
ちようせんじ

[現在地名]蒲郡市五井町 岡海道

曹洞宗、竜田山安養院と号す。本尊薬師如来。もと天台宗、安養院と号す。安達盛長の建立にかかる三河七御堂の一。永正六年(一五〇九)松平太郎左衛門尉長勝が再興し、このとき改宗し、現寺号に改めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「長泉寺」の解説

長泉寺

(宮城県角田市)
ふるさとみやぎ文化百選 建造物とまちなみ編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android