鶴見村(読み)つるみむら

日本歴史地名大系 「鶴見村」の解説

鶴見村
つるみむら

[現在地名]鶴見区諏訪坂すわざか佃野つくの町・豊岡とよおか町・寺谷てらや一―二丁目・鶴見中央つるみちゆうおう一―五丁目・鶴見一―二丁目・東寺尾東台ひがしてらおひがしだい

北から東を鶴見川が流れ、対岸北に市場いちば村、東に潮田うしおだ村・菅沢すがさわ村があり、南は生麦なまむぎ村、西は東寺尾村に接する。東端を川沿いに南北に東海道が通る。

寿永二年(一一八三)二月二七日の源頼朝寄進状(県史一)で鎌倉鶴岡八幡新宮若宮領とされた「武蔵国師岡保内大山郷」は、永和三年(一三七七)八月一三日の武蔵国鶴見郷代官栄神事料足検納状(県史三)には「鶴見郷号大山郷」とみえる。「吾妻鏡」仁治二年(一二四一)一〇月二二日条に、多摩川の水を引き武蔵野を開発するにあたって将軍藤原頼経が土神の祟りを避けるために方違した所として秋田城介義景所領「鶴見郷」がみえ、翌一一月四日頼経は「鶴見別庄」に移った。鎌倉幕府滅亡から南北朝内乱期にはしばしば戦場となった。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞にくみした千葉介貞胤が鎌倉道下の道の大将金沢貞将軍を「鶴見辺」で破った(梅松論)。建武二年(一三三五)幕府再興を図って挙兵した北条時行を迎え撃った佐竹義直が討死し(同三年九月二八日「足利尊氏御教書写」県史三)、同四年塙右京大夫は「鶴見原」での軍忠を賞されている(同二月一六日「足利尊氏御教書写」同書)。正平七年(一三五二)三月三日の水野致秋軍忠状(同書)によれば、二月一九日致秋が尊氏攻撃に「鶴見宿」を立ったとあり、この時期に宿が形成されていたことがうかがわれる。また延文三年(一三五八)八月一四日の鶴岡八幡宮放生会用途送進状によれば同宮領の鶴見郷から放生会料用途一二貫文が納められた。応安四年(一三七一)一〇月五日の隼人佑某禁制(同書)には「建長寺正統菴領武蔵国鶴見郷同新市」「新市庭」とあり、市があった。


鶴見村
つるみむら

[現在地名]別府市鶴見 東荘園ひがしそうえん荘園そうえん荘園北そうえんきた緑丘町みどりがおかまち吉弘よしひろ扇山おうぎやま大畑おおばたけ馬場ばば・鶴見町・実相寺じつそうじ新別府しんべつぷ

北石垣きたいしがき村・中石垣村の西、大平おおひら(扇山)・鶴見岳東麓の石垣原いしがきばる扇状地の中央部に位置する。近世初期に原中はらじゆう村・北中きたじゆう村の二村に分立したが、原中村は郷帳類では鶴見村と記されている場合が多く、また両村を合せて鶴見村という場合もある。文永一〇年(一二七三)一〇月五日の朝見郷弁分百姓等起請文案(宮内庁書陵部八幡宮関係文書)に石垣庄堺として鶴見村の名がみえる。


鶴見村
つるみむら

[現在地名]浜松市鶴見町

鶴見輪中とその西岸に位置。大日本帝国陸地測量部が明治二三年(一八九〇)に測図した地形図は鶴見輪中内の集落を東鶴見、天竜川西岸の集落を西鶴見とする。東鶴見の南は庄屋しようや村と安富やすとみ村。西鶴見の西は上飯田かみいいだ村、北は半場はんば村。なお延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図は、西鶴見の地を鶴見新田と記す。一方、東鶴見の耕地は輪中北側の堤外にも及び、文化一二年(一八一五)の天竜川御普請絵図(浜松市博物館蔵)は畑地を描き、「安留鶴見半場入会附洲起返」と注記する。中世はかば御厨のうち鶴見郷として推移した。松平忠頼領郷村帳では高六三石余、畑七町六反余、うち川成一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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