鹿屋城跡(読み)かのやじようあと

日本歴史地名大系 「鹿屋城跡」の解説

鹿屋城跡
かのやじようあと

[現在地名]鹿屋市北田町

肝属きもつき川上流右岸、同川に注ぐ鹿屋川との間にある標高六六メートルを最高地点とする、北から南に延びるシラス台地を主とする山城跡。亀鶴かめつる城ともいう。当地域は平安後期に肝属郡司となった肝付氏の領域で、建暦元年(一二一一)伴兼広が鹿屋院弁済使となり、以後萩原氏を称し勢力を拡大した。兼広は肝付氏初代兼俊の弟兼任の系統であった。正中二年(一三二五)肝付兼石の子宗兼が鹿屋院弁済使となり(同年一〇月八日「沙弥音阿譲状案」長谷場文書)、鹿屋氏を名乗り萩原氏に代わって当地を領した。同院の鎌倉初期の地頭島津忠久、中期以降は名越氏で、文保元年(一三一七)頃には地頭が弁済使職を兼務することになった(同年六月九日「肝付郡弁済使尊阿見参料請取状」肝付文書)。「薩隅日三州他家古城主来由記」は津野四郎兵衛尉を当城の最初の城主としている。津野氏は地頭名越氏の被官であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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