日本歴史地名大系 「中名村」の解説
中名村
なかみようむら
近世は鹿屋郷に属した。慶長二年(一五九七)八月四日の知行方目録(末川文書)に鹿屋の中村のうち二千四六九石余とあり、伊集院忠棟によってうち二千二二七石余が御蔵入分(島津彰久室分)、ほかは彰久の子島津信久(のち垂水島津氏)分とされている。寛永四年(一六二七)九月二五日の知行目録(同文書)には中之村とあり、当村の一二石余と上之村分を合せた都合一千石が信久の隠居分とされ、また中之村の高一千六〇四石余など、都合三千七〇〇石が島津彰久室の知行分とある。
中名村
なかみようむら
中名村
なかのみようむら
西を
近世は小田原藩領。享保一二年(一七二七)の村明細帳によれば田方一〇町七反余(うち八割が砂埋)、畑方一町四反余(すべて砂埋)、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火の降砂被害により翌年から正徳元年(一七一一)まで畑年貢のみを上納、また噴火後の
中名村
なかのみようむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報