中名村(読み)なかみようむら

日本歴史地名大系 「中名村」の解説

中名村
なかみようむら

[現在地名]鹿屋市打馬うつま一―二丁目・北田町きただちよう西大手町にしおおてまち大手町おおてまち古前城町こせんじようちよう本町ほんまち曾田町そだちよう朝日町あさひまち向江町むかえちよう共栄町きようえいちよう新栄町しんえいちよう新生町しんせいちよう上谷町かみだにちよう西原にしはら一―四丁目・寿ことぶき一―八丁目・札元ふだもと一―二丁目・白崎町しらさきちよう大浦町おおうらちよう郷之原町ごうのはらちよう笠之原町かさのはらちよう王子町おうじちよう新川町しんかわちよう今坂町いまさかちよう高牧町たかまきちよう下堀町しもほりちよう旭原町あさひばるちよう

上名かんみよう村の南に位置し、肝属きもつき川と下谷しもだに川が中央部を流れる。西部は郷之原・西原のシラス台地(鹿屋原)、東は笠野原かさのはら集落はおおむね台地麓の湧水地帯に分布する。中世は鹿屋院のうち。元徳二年(一三三〇)八月日の鹿屋院雑掌兼信申状(肝付文書)に添えられた鹿屋院惣地頭代官等押領田在家山野注文にみえる鹿屋院中村にあたる。同注文には現在の町名などに合致する郷之原・北田・大曲(尾曲)・古世城(古前城)・曾田・白崎・笠野原・高牧などの地名がみえる。

近世鹿屋郷に属した。慶長二年(一五九七)八月四日の知行方目録(末川文書)に鹿屋の中村のうち二千四六九石余とあり、伊集院忠棟によってうち二千二二七石余が御蔵入分(島津彰久室分)、ほかは彰久の子島津信久(のち垂水島津氏)分とされている。寛永四年(一六二七)九月二五日の知行目録(同文書)には中之村とあり、当村の一二石余と上之村分を合せた都合一千石が信久の隠居分とされ、また中之村の高一千六〇四石余など、都合三千七〇〇石が島津彰久室の知行分とある。


中名村
なかみようむら

[現在地名]喜入町中名・喜入・一倉ひとくら

現喜入町の中央部に位置し、北は瀬々串せせくし村、西は知覧ちらんこおり村・東別府ひがしべつぷ(現知覧町)、南は前之浜まえのはま村、東は海に面する。八幡はちまん川・愛宕あたご川の下流域に集落を形成している。近世には喜入郷上之かみの(上村・上名)のうちとして把握されるが、寛永(一六二四―四四)末年頃に南部が中名村として分村した(喜入肝付家文書)。喜入郷の中心は当村の現喜入町役場一帯で、喜入郷の領主仮屋が置かれていた。


中名村
なかのみようむら

[現在地名]開成町中之名なかのみよう

西をひる川が流れ、東は延沢のぶさわ村、北は円通寺えんつうじ村、南は宮台みやのだい村と接する。小田原衆所領役帳に大道寺弥三郎「四拾七貫九百三拾四文 西郡中名」と載せる。正保国絵図には「中之名」とあり、「中野名」(享保一二年「村明細帳」鳥海文書)とも記した。

近世は小田原藩領。享保一二年(一七二七)の村明細帳によれば田方一〇町七反余(うち八割が砂埋)、畑方一町四反余(すべて砂埋)、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火の降砂被害により翌年から正徳元年(一七一一)まで畑年貢のみを上納、また噴火後の酒匂さかわ大口おおくち堤防決壊によって田畑流失、住民離散のため享保三年まで年貢・諸役が免除され、宝永一一年まで村西を同河川本流(新大川)が流れたために砂地の上に水垢をためて水田開発を図っている。


中名村
なかのみようむら

[現在地名]婦中町中名

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置し、北東蔵島ぞうしま村、西は道場どうじよう村。式内社と伝える熊野神社が鎮座する(婦負郡志)正保郷帳では中ノ名村とあり、高三二二石余、田方二〇町四反余・畑方一町一反。享保六年(一七二一)の高三七四石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高三七五石余・定免三ツ五歩、新田高三石余・平均免七歩三厘余、小物成は鮎川役二匁九分二厘・鮭川役一三匁六分七厘・川原役四分二厘(高物成品々手鏡)。文政八年(一八二五)には奥田組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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