鹿野口惣門(読み)しかのぐちそうもん

日本歴史地名大系 「鹿野口惣門」の解説

鹿野口惣門
しかのぐちそうもん

[現在地名]鳥取市西町にしまち三―五丁目

智頭口ちずぐち惣門の北西にある郭内九つの惣門の一。現在の西町五丁目市立醇風じゆんぷう小学校校門近くにあった。古名は伯耆口といい、近世後期には柳倉やなぎくらの惣門と称されていた。また惣門内より千代川古海ふるみの渡手前の乗越のりこしの辺りまでを鹿野海道とよんだともいう(鳥府志)。当門から出る道は池田光政による城下大拡張時以来、伯耆に向かう道筋で、惣門を経て惣堀に架かる橋を渡って南西へ向かい、ちや町の角を北西に折れて鋳物師いもじ橋でふくろ(旧袋川)を越えて、北西の千代川安長やすなが渡に出る伯耆街道となる。伯耆口の名称はこれにちなむのであろう。一方、鹿野口惣門の呼称は光政以前、池田長吉の時代に亀井氏が在城する鹿野城(現鹿野町)への道が出ていたことの名残とされ(鳥府志)、この道は茶町で曲がらず南西へ直進して鹿野橋で袋川を渡り、行徳ぎようとくより古海渡に出る鹿野往来となる。明暦二年(一六五六)には降雪時の町役として伯耆口に雪掻人夫三人を出すことが定められた。翌三年竹垣・竹柴折戸の番所が置かれた鹿野口・伯耆海道は、当門付近と鹿野海道筋であろうか。寛文二年(一六六二)二月、伯耆海道口は以後鹿野海道筋とよぶことと決められており、伯耆口から鹿野口への改称もこの頃と考えられる。同年一一月には鹿野海道土手限りの下り口にあった木戸が土手際に移されている(以上「町方御定」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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