御堀端
おほりばた
[現在地名]鳥取市東町一―三丁目
鳥取城南西の内堀に沿った通り。「鳥府志」は「因幡民談記」の城の堀の前は池田長吉の時の構のままでは狭いので、池田光政時代に三間ずつ幅を広げて桜の馬場と称したという記述を引いて、桜の馬場は古来より御堀端の総名であるとしている。寛延二年(一七四九)の御巡検御返書(米子市立図書館蔵)には堀の長さ三町五〇間、深さは大手橋の周りで石垣より水底まで六尺、堀幅三方とも一六間、大手橋は幅三間・長さ一九間半、北の門橋は幅二間・長さ二二間半とある。
「鳥府志」所載の岡島正義の推定図によると、宮部氏時代の内堀はのちに擬宝珠橋と称される橋の手前から山手のほうに回り、二の丸の山際まで続いていた。当時の外構は南東側は三の丸南の鳥取堀からまっすぐ西に延び、大名小路を横切って現在の西町一丁目付近、新蔵のあった辺りの古い袋川につないで防御線とし、北西側には現在の鳥取北中学校の横、山手口の惣門より西方杉浦の惣門にかけて堀を造り、蛇行して流れる古い袋川に合流させていた。その後池田長吉時代には内堀を南東に延ばして鳥取堀に接続し、現在の武道館横、県立鳥取西高校第一グラウンドの角にあった兵庫櫓のところで山下へ折れ曲る形に改めている。外構は柳堤とよばれる土手・堀を江崎上の惣門・天王の尾を始点として改めて南方に造り、のちの掛出町付近を蛇行していた古い袋川を利用して、さらに西方に転じて北西側杉浦の惣門に到達させた。この土手には柳を植えて外曲輪を完成させている(鳥府志)。慶安―延宝(一六四八―八一)頃までの城下絵図(県立博物館蔵)には、鳥取堀より大名小路に至る北東から南西方の堀が記されているが、以後の絵図には埋立てられたらしく描かれていない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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