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鹿野藩 しかのはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鹿野藩
しかのはん

江戸時代,因幡国 (鳥取県) 気多 (けた) 郡鹿野地方を領有した藩。初め亀井氏が1万 3000石 (のち4万 3000石) で入国,元和3 (1617) 年転出,寛永 17 (40) 年から寛文2 (62) 年まで松平 (鳥取池田) 氏分家が1万石で在封,一時本藩領に戻ったが,貞享2 (85) 年から再び鳥取藩支封 (鳥取新田藩) として池田氏が2万 5000石 (のち3万石) で領有し,明治1 (1868) 年鹿奴新田 (しかのしんでん) 藩と改称,廃藩置県にいたる。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鹿野藩
しかのはん

因幡(いなば)国(鳥取県)気多(けた)郡鹿野に置かれた小藩。1581年(天正9)、尼子氏の旧臣亀井茲矩(これのり)は豊臣(とよとみ)秀吉の鳥取城攻めに従い鹿野に封ぜられ、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加増され、気多・高草(たかくさ)2郡3万8000石を与えられた。1617年(元和3)、池田光政(みつまさ)の因幡・伯耆(ほうき)両国移封に伴い亀井氏は石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)に移り、鹿野藩は消滅する。1632年(寛永9)、池田光仲が鳥取城主として因・伯に入り、1658年(万治1)、光仲の二男仲澄(なかずみ)が新田2万5000石を分知され分家をたて、東館(ひがしやかた)・三田(みた)家といった。1868年(明治1)12月、東館を鹿野藩と称したが、新政府はこれを公認しなかった。[福井淳人]
『『鳥取県史』全18巻(1969~82・鳥取県) ▽山根幸恵著『亀井朱印船私考』(1955・鳥取週報社) ▽徳永職男著『因伯史考』(1975・徳永職男論文集刊行会)』

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