麻生原村(読み)あそうばらむら

日本歴史地名大系 「麻生原村」の解説

麻生原村
あそうばらむら

[現在地名]市原市朝生原あそうばら

折津おりづ村の南東にあり、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に麻生原村とみえ、高三八九石。天和二年(一六八二)より勝浦藩領。正保国絵図でも同高であるが、枝郷の石神いしがみ村・黒川くろかわ村・戸面とづら村を含むと考えられる。元禄郷帳では高一九九石余。宝暦一〇年(一七六〇)の岩槻藩領知目録写に麻生原村とみえ、幕末まで同藩領であった。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では朝生原村として高三八九石余、家数四五。


麻生原村
あそうばらむら

[現在地名]山元町浅生原あそうばら

南と東は高瀬たかせ村、北は当村分の山下やました町をもって山寺やまでら村、西は伊具いぐ尾山おやま(現角田市)正保郷帳では田三七貫二九九文・畑五貫七三三文。「安永風土記」では田六五貫一一三文・畑六貫七七七文で、このうち新田は二二貫二五五文。亘理伊達氏の知行地は六五貫二八七文で残りは蔵入地。人頭二〇人のうち寛永一九年(一六四二)の竿答百姓一四人で、この間上畑屋敷に沽却禿が一軒ある。百姓家数三〇(うち名子・水呑各五)、男九六・女七〇、馬四四。


麻生原村
あそうばるむら

[現在地名]甲佐町麻生原

緑川左岸にあり、西は世持よもち村、南は船津ふなつ村、北は津志田つしだ村に接する。加藤清正の緑川改修工事に伴って村の南東に麻生原堰が作られた(甲佐町史)近世は甲佐手永に属し、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数三二・男一〇八・女八八、駄馬一九、本高二七八石三斗余、田一町六反余・畑二四町七反三畝余、新地田二町八反四畝余、諸開(一毛畝物・野開・請藪・新請藪)一〇町五反三畝余と茶床がある。明治一一年(一八七八)の民業戸数は農業四〇・水車職一(郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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