里見義尭(読み)さとみ よしたか

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「里見義尭」の解説

里見義尭 さとみ-よしたか

1507-1574 戦国-織豊時代武将
永正(えいしょう)4年生まれ。里見実尭(さねたか)の子。天文(てんぶん)3年小田原北条氏の助けで父のかたきである従弟義豊(よしとよ)をたおし,安房(あわ)(千葉県)を支配。10年ごろ稲村城から上総(かずさ)久留里(くるり)城に本拠をうつし,以後再三にわたって北条氏とたたかった。天正(てんしょう)2年6月1日死去。68歳。幼名は権七郎。
格言など】先んじて之を制するに如(し)かず(「房総軍記」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の里見義尭の言及

【安房国】より

…旧国名。現在の千葉県南部。
【古代】
 東海道に属する中国(《延喜式》)。718年(養老2),北の上総国の平群(へぐり),安房,朝夷(あさひな),長狭(ながさ)4郡を分割して,安房国を建てた。その後,741年(天平13)にもとの上総国に併合されたが,757年(天平宝字1)ふたたび分立して安房国となった。かつて《国造本紀》に成務朝に定まったと伝える阿波国造と,《古事記》神武天皇段にみえる長狭国造の地域であった。…

【上総国】より

…一方山間部の真里谷城(木更津市真里谷(まりやつ)),庁南城(長生郡長南町),大多喜城(夷隅郡大多喜町)には守護代武田氏一族が拠り,古河公方,小弓公方を支持して活動したが,天文期の内争により衰えた。すなわち44年(天文13)里見義尭の宿将正木時茂が大多喜城に拠る武田朝信を攻め,朝信は敗れて自殺し,武田氏に代わって正木時茂が大多喜城主となったのである。またそのころ東上総の勝浦付近も武田氏の勢力範囲であったが,正木軍が進出してこれを制圧,勝浦,一宮の諸城は正木氏一族の拠点となった。…

【里見氏】より

…戦国時代に南房総を領国とした大名。清和源氏新田氏流。新田義重の子義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み,里見を称したのに始まる。義俊の9代後の家基が結城合戦で討死し(1441),嫡子義実が逃れて相模国三浦に落ち,三浦氏の援助のもとに安房国白浜に渡り,以後房総里見氏の活動が始まったという。当時の安房国では長狭郡に東条氏,朝夷郡に丸氏,安房郡に神余氏,平群郡に安西氏の4豪族が分立していたが,義実は武略をめぐらせて諸豪を押さえ,1445年(文安2)安房一国を平定したと房総の諸軍記は伝えている。…

※「里見義尭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...

実質賃金の用語解説を読む