黒瀬義門(読み)クロセ ヨシカド

20世紀日本人名事典 「黒瀬義門」の解説

黒瀬 義門
クロセ ヨシカド

明治期の陸軍中将,男爵 貴院議員。



生年
弘化3年1月29日(1846年)

没年
大正8(1919)年9月2日

出生地
備前国岡山城下船頭町(岡山県)

主な受賞名〔年〕
勲一等大綬章〔明治39年〕

経歴
岡山藩士・源六郎の長男に生まれる。明治元年岡山藩学兵学館に学び、選抜されて大阪兵学寮青年舎に入学。4年陸軍少尉、5年中尉に進級し砲兵第7大隊副官となる。佐賀の乱、萩の乱を経て、10年西南戦争田原坂戦いでは砲身に水をかけながら砲撃を続けるという戦歴を残した。18年砲兵中佐で熊本の砲兵第6連隊長、21年砲兵射的学校長を務め、同年砲兵大佐に進む。26年砲兵学校長兼将校生徒試験常置委員長を務め砲兵会議員も兼務した。日清戦争では第2軍砲兵部長として出征、28年少将、野砲兵監、ついで要塞砲兵監となる。34年中将、36年台湾総督・児玉源太郎の下で参謀長となって台湾に赴き、37年台湾守備軍司令官となり、日露戦争では留守第7師団長を務めた。40年男爵。44年貴院議員。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒瀬義門」の解説

黒瀬義門 くろせ-よしかど

1846-1919 明治時代軍人
弘化(こうか)3年1月29日生まれ。西南戦争の田原坂(たばるざか)の戦いで砲身に水をかけながら砲撃をつづけたという。日清(にっしん)戦争で第二軍砲兵部長,日露戦争では留守第七師団長をつとめた。明治34年陸軍中将。貴族院議員。大正8年9月2日死去。74歳。備前(岡山県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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