黒田 長知
クロダ ナガトモ
- 肩書
- 福岡藩知事
- 別名
- 初名=慶賛 通称=健若 官兵衛
- 生年月日
- 天保9年12月19日(1838年)
- 出生地
- 江戸・柳原(現・東京都)
- 経歴
- 津藩主・藤堂高猷の二男として江戸藩邸に生まれる。嘉永元年(1848年)福岡藩主・黒田長溥の養嗣子となり、名を長知と改める。文久3年(1863年)8月18日の政変の後、病中の長溥に代って上京、長州藩の赦免と公武合体を朝廷・幕府に訴えた。慶応2年(1866年)第二次長州征伐後に上京、二条城で国事への意見を開陳。明治2年家督を相続、同年版籍奉還により福岡藩知事。4年戊辰戦争出兵による財政難から藩当局が貨幣贋造を行っていたことが発覚、藩知事を罷免された。同年欧米に留学、のち明治憲法起草者の一人となる金子堅太郎、三井合名理事長を務める団琢磨らを抜擢して同行させた。
- 没年月日
- 明治35年1月7日
- 家族
- 実父=藤堂 高猷(津藩主) 養父=黒田 長溥(福岡藩主) 息子=黒田 長成(貴院副議長)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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黒田長知
没年:明治35.1.7(1902)
生年:天保9.12.19(1839.2.2)
幕末の筑前国福岡藩主。初め慶賛。通称健若,下野守。伊勢国津藩主藤堂高猷の次男として江戸に生まれ,嘉永1(1848)年福岡藩主黒田長溥の養子となる。文久3(1863)年の8月18日の政変後,病の長溥に代わり上京,長州(萩)藩の赦免と公武合体を朝幕に訴えた。慶応2(1866)年の長州再征後,上京し二条城で国事意見を開陳するなど活躍,明治2(1869)年,家督を相続した。同年の版籍奉還後,藩知事となるが,同4年,戊辰戦争出兵による財政難から,藩当局が太政官札,二分金などを贋造して北海道で物資買い付けを行っていたことが発覚。知事罷免,閉門となった。4カ月後欧州へ留学した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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黒田長知 くろだ-ながとも
1839*-1902 明治時代の大名。
天保(てんぽう)9年12月19日生まれ。伊勢(いせ)津藩主藤堂高猷(たかゆき)の次男。黒田長溥(ながひろ)の養子となり,明治2年筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田家12代。この間の文久3年(1863)の八月十八日の政変後,養父にかわって長門(ながと)萩(はぎ)藩の赦免を朝廷と幕府にはたらきかける。明治4年の太政官札贋造(がんぞう)事件で,藩知事を罷免(ひめん)された。明治35年1月9日死去。65歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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