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金子堅太郎 かねこ けんたろう

美術人名辞典の解説

金子堅太郎

政治家。福岡県生。ハーバード大卒。第三次伊藤内閣の農商務相・第4次伊藤内閣の法相として伊藤から重用され、また立憲政友会創立に参画した。渓水と号し、書を能くした。昭和17年(1942)歿、90才。

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百科事典マイペディアの解説

金子堅太郎【かねこけんたろう】

明治〜昭和前期の政治家。福岡藩士の家に生まれ,1871年―1878年藩の留学生としてハーバード大学で学ぶ。1880年元老院に入り井上毅伊東巳代治らと大日本帝国憲法起草に従事し,伊藤博文直系の官僚政治家として活躍,〈憲法の番人〉と自称した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

金子堅太郎 かねこ-けんたろう

1853-1942 明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。明治18年首相秘書官となり,翌年から伊藤博文のもとで井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)とともに憲法起草に参画。第3次伊藤内閣の農商務相,第4次伊藤内閣の法相をつとめた。貴族院議員。昭和17年5月16日死去。90歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。ハーバード大卒。号は渓水。

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朝日日本歴史人物事典の解説

金子堅太郎

没年:昭和17.5.16(1942)
生年:嘉永6.2.4(1853.3.13)
明治大正,昭和初期の官僚。政治家。父は福岡藩士金子清蔵,母は安子。号は渓水。藩校修猷館で学んだのち,明治3(1870)年藩命により江戸に遊学し,英語を学ぶ。4年旧藩主黒田長知の留学に団琢磨らと随行,岩倉遣外使節団と共に出発した。1878年ハーバード大学で法律学を専攻し,小村寿太郎と寝食を共にした。1878年卒業。級友にはのちの大統領セオドア・ルーズベルトがいた。11年帰国後東大予備門の教員をしながら,共存同衆,嚶鳴社に入会し時事を論じ,目賀田種太郎,田尻稲次郎らと共に夜学で法律を教えた。のちの専修学校(専修大学)である。17年宮中に制度取調局が新設されると伊藤博文の下で井上毅,伊東巳代治らと共に憲法,貴族院令,衆院議員選挙法などの起草に当たった。これ以後,伊藤系の官僚,政治家として農商務,司法各大臣を務め,立憲政友会の創立に参画。日露戦争(1904~05)の際には渡米し世論工作を担当。晩年は枢密顧問官として不戦条約,ロンドン海軍軍縮条約,天皇機関説などを批判するかたわら,『明治天皇紀』編修の中心となった。昭和9(1934)年伯爵叙爵。<参考文献>藤井新一『帝国憲法と金子堅太郎』

(長井純市)

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世界大百科事典 第2版の解説

かねこけんたろう【金子堅太郎】

1853‐1942(嘉永6‐昭和17)
明治~昭和前期の官僚政治家。福岡藩士の家に生まれ,藩校修猷館に学び,明治維新後,旧藩主に従ってアメリカに留学,ハーバード大学で法律学を修めた。1880年元老院に出仕,各国憲法の調査に当たり,84年制度取調局の設置にともない,立憲制移行にともなう諸法制の整備に関与した。86年からは伊藤博文のもとで井上毅,伊東巳代治らとともに憲法,皇室典範や憲法付属の法典の起草に当たり,とくに貴族院令,衆議院議員選挙法の立案を担当した。

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大辞林 第三版の解説

かねこけんたろう【金子堅太郎】

1853~1942) 官僚・政治家。福岡藩出身。伊藤博文のもとで、帝国憲法の起草に参加。のち農商務相・法相などを歴任。日露戦争時、渡米して講和外交に貢献。枢密顧問官。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

金子堅太郎
かねこけんたろう

[生]嘉永6(1853).2.4. 筑前,鳥飼
[没]1942.5.16. 葉山
官僚政治家。福岡藩下級士族出身。明治4 (1871) 年より 1878年までハーバード大学で法律学を専攻。帰国後元老院書記官。 85年伊藤内閣の総理大臣秘書官となった。この間,井上毅伊東巳代治とともに憲法草案起草に参画。また内閣制度の創設,貴族院令起草など近代法制の整備に貢献した。憲法制定後は,98年第2次伊藤内閣農商務相,1900年司法相を歴任。立憲政友会創立委員のほか,日露戦争期には派米使節として日本外交の有利な展開に努めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

金子堅太郎
かねこけんたろう
(1853―1942)

明治時代の官僚、政治家。伯爵。嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。福岡藩出身。1871年(明治4)藩主黒田長知(くろだながとも)に随行して渡米、1878年ハーバード大学法律学科を卒業して帰国。同級に後の大統領セオドア・ルーズベルトがいた。伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を得、1885年総理大臣秘書官となり、ついで枢密院議長秘書官から貴族院議員になる。この間、明治憲法の調査起草にあたり、とくに衆議院議員選挙法や貴族院令など付属法の起草に貢献。1898年第三次伊藤内閣の農商務相、1900年(明治33)第四次伊藤内閣の司法相を歴任した。1906年枢密顧問官となり、自ら「憲法の番人」と称していた。維新史料編纂会(へんさんかい)総裁として歴史の編纂にもあたった。昭和17年5月16日没。[佐々木克]

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世界大百科事典内の金子堅太郎の言及

【速記】より

…そののち速記の利用分野は口述(矢野竜渓《経国美談》),講演(外山正一《漢字廃すべき論》),地方議会(埼玉県会)などに及んだが,とくに三遊亭円朝述《怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)》(1884)に始まる講談速記(速記本)は広く世人に親しまれ,また言文一致の推進力ともなった。当時の最大の目標は帝国議会の速記であったが,これも金子堅太郎(初代貴族院書記官長)の英断によって第1議会(1890)から実現し,日本憲政史の大きな誇りとなった。そのため田鎖には1894年には藍綬褒章(らんじゆほうしよう),96年には年金300円終身下賜ということまで行われた。…

※「金子堅太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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