広岡知男(読み)ヒロオカトモオ

デジタル大辞泉 「広岡知男」の意味・読み・例文・類語

ひろおか‐ともお〔ひろをかともを〕【広岡知男】

[1907~2002]新聞経営者。大阪の生まれ。学生時代は野球活躍。昭和7年(1932)朝日新聞社入社し、経済記者として健筆をふるった。同42年社長。同52年会長。アマチュア野球に携わり、野球のオリンピック参加にも尽力した。

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20世紀日本人名事典 「広岡知男」の解説

広岡 知男
ヒロオカ トモオ

昭和・平成期の新聞人 元・朝日新聞社長;元・日本学生野球協会会長。



生年
明治40(1907)年8月24日

没年
平成14(2002)年1月5日

出生地
大阪府大阪市

出身地
兵庫県淡路島

学歴〔年〕
東京帝国大学政治学科〔昭和7年〕卒

主な受賞名〔年〕
新聞文化賞〔平成7年〕

経歴
昭和7年朝日新聞社入社。経済畑一筋に歩み、17年東京本社論説委員。戦後は大阪の経済部長、東京本社経済部長、同編集局長を歴任し、31年取締役。のち西部本社代表。39年東京本社代表取締役、42年社長、52年会長に就任。55年社友。この間、50年から2期4年間、日本新聞協会会長も務めた。編集局長時代、31年から始まった初の南極観測隊派遣を支援。食糧供給や基金募集をした。33年にはモスクワで旧ソ連共産党第1書記・フルシチョフと会見するなど、新聞人として各国首脳と幅広く接触。40年には他社に先駆けて新聞編集・製作をコンピューター化するシステムの開発を指示、新聞製作の近代化にも尽力した。一方、野球人としても活躍し、大正13年旧制市岡中(大阪府 現・市岡高)から第1回選抜中等学校野球大会に出場。東大時代には東京六大学秋季リーグで首位打者を獲得した。朝日新聞退社後は野球育成に情熱を注ぎ、昭和59年〜平成12年日本学生野球協会会長、3〜11年全日本アマチュア野球連盟会長を兼務。6年五輪への野球参加に貢献するなど国際交流への尽力が評価され、野球殿堂入りした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広岡知男」の解説

広岡知男 ひろおか-ともお

1907-2002 昭和時代後期の新聞経営者。
明治40年8月24日生まれ。市岡中学時代に甲子園出場。東京帝大では昭和6年東京六大学野球の首位打者。7年大阪朝日新聞社に入社,経済畑をあるく。戦後,東京本社経済部長,編集局長をへて,42年社長,52年会長。新聞制作のコンピューター化を実現した。日本学生野球協会会長などをつとめ,平成6年野球殿堂入り。平成14年1月5日死去。92歳。兵庫県出身。

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367日誕生日大事典 「広岡知男」の解説

広岡 知男 (ひろおか ともお)

生年月日:1907年8月24日
昭和時代;平成時代の新聞人。朝日新聞社長;日本学生野球協会会長
2002年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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