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フルシチョフ フルシチョフ Khrushchëv, Nikita Sergeevich

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フルシチョフ
フルシチョフ
Khrushchëv, Nikita Sergeevich

[生]1894.4.17. クルスク,カリノフカ
[没]1971.9.11. モスクワ
ソ連の政治家。ウクライナ国境近くの貧しい農家に生れ,父は炭坑員。少年時代から労働に従事。 1918年ボルシェビキに加入し,19年赤軍に参加。国内戦ののちユゾフカ (現ドネツク) のソビエト労働者学校に学び,25年ユゾフカで党専従活動についた。

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デジタル大辞泉の解説

フルシチョフ(Nikita Sergeevich Khrushchyov)

[1894~1971]ソ連の政治家。スターリン死後、ロシア共産党第一書記に就任。1956年の党大会でスターリン批判を行い、1958年からは首相を兼任して平和共存路線を推進したが、中国との関係は悪化した。1964年に失脚し、引退。

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百科事典マイペディアの解説

フルシチョフ

ソ連の政治家。1918年ソビエト連邦共産党に入党。1934年党中央委員,1935年モスクワ州・市の党第一書記となり,モスクワ地下鉄の建設に尽力した。1938年ウクライナ共産党第一書記となり,独ソ戦では軍事会議委員としてスターリングラードの戦などで作戦を指導した。
→関連項目アイゼンハワーカガノビチキューバ危機クライバーンケネディコスイギンジューコフスースロフスターリンブレジネフ

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世界大百科事典 第2版の解説

フルシチョフ【Nikita Sergeevich Khrushchyov】

1894‐1971
ソ連邦の政治家で,非スターリン化の推進者。ロシア南部クルスクの炭坑夫の子として生まれ,ドネツ炭田で働き始める。十月革命後の1918年の内乱時に赤軍に参加,共産党に入党する。ネップ期はウクライナの党の活動に従事するが,29年からはモスクワに移り,工業大学に入る。35年には共産党モスクワ市委員会第一書記として活躍する。38年にはウクライナ党第一書記となり,39年の第18回共産党大会で政治局員に選出された。

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大辞林 第三版の解説

フルシチョフ【Nikita Sergeevich Khrushchyov】

1894~1971) ソ連の政治家。スターリン死後中央委員会第一書記となり、スターリン批判を行い、平和共存外交・党内民主化を提唱。アメリカとの冷戦緩和に努めたが、中ソ対立を招き、農業政策にも失敗、1964年失脚した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フルシチョフ
ふるしちょふ
Никита Сергеевич Хрущёв Nikita Sergeevich Hrushchyov
(1894―1971)

ソ連の政治家。4月17日、ウクライナに近いロシア連邦南部のクルスク県カリノフカ村の炭鉱夫の家庭に生まれる。少年時代から牧童として働き、15歳のときに父が働くドネツ炭鉱に入る。1915年に最初の妻ガリーナと結婚、1916年に長女ユーリア、1918年に長男レオニードを得る。1918年に共産党に入党し、発足まもないソビエト政権擁護のために反革命軍と戦う。1921年に復員後ドネツ炭鉱に戻り、1922年から3年間ドネツ工業専門学校労働者予備学部で学ぶ。この間に妻ガリーナを1921年の飢饉(ききん)で失い、1924年にニーナと再婚。ニーナとの間に息子セルゲイ、娘ラーダとエレーナの3児を得る。同学部終了後ドネツ炭鉱とキエフで党活動に専従、1929年にモスクワの工業大学に入学、ここでスターリンの妻ナジェジュダ・アリルーエワと知り合い、スターリンの知己を得る。1931年にモスクワ市のバウーマン地区党委員会書記となり、モスクワ市党委第二書記、同第一書記、モスクワ州党委第二書記を経て1935年にモスクワ市・州党委第一書記となる。1934年にソ連党中央委員、1937年にソ連最高会議代議員に選ばれ、中央政界に足場を築く。1938年1月にウクライナ党中央委第一書記に転じ、1949年12月までウクライナで活動、とくに対独戦と戦後復興に尽力した。この間、1947年3月から12月まで第一書記を辞し、ウクライナ首相を務めたが、すぐに第一書記に戻った。また、1938年にはソ連党中央委政治局員候補、1939年には同政治局員となり、ソ連の最高指導部の一員となった。1949年12月にソ連党中央委書記兼モスクワ州党委第一書記としてモスクワに帰り、1952年10月の第19回党大会では党規約の改正について報告、スターリン、マレンコフに次ぐ党内第3位の実力者であることを示した。1953年3月のスターリンの死後、党中央委書記の仕事に専念、同年9月に正式に第一書記となった。1956年2月の第20回党大会ではスターリンを批判し、内外に大きな衝撃を与えた。1957年6月にはスターリン批判に反対するマレンコフ、モロトフなどの反撃にあい、失脚しそうになるが、巻き返して逆に反フルシチョフ派を追放、1958年3月にはソ連首相も兼任、名実ともにソ連の最高指導者となった。1959年アメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と会談、米ソ共存路線を推進したが、中国との関係は悪化した。また農業生産も停滞しそれを克服しようとして行った機構改革も失敗した。1964年10月に主観主義と主意主義の誤りを犯したとして批判され、党第一書記と首相の地位から解任された。1971年9月11日、年金生活中に死去。胸像のついた墓がモスクワのノボジェービチー修道院の墓地にある。1970年と1974年に西側で『フルシチョフ回想録』が出版されたが、フルシチョフ自身は生前その存在を公式には否定していた。[中西 治]
『M・ラッシュ著、安田志郎訳『ニキタ・フルシチョフ』(1959・時事通信社) ▽G・ボッファ著、石川善之助訳『スターリンからフルシチョフへ』『フルシチョフ時代――続スターリンからフルシチョフへ』(1961、1962・三一書房) ▽E・クランクショー著、高橋正訳『フルシチョフ――その政治的生涯』(1967・弘文堂) ▽S・タルボット編、佐藤亮一訳『フルシチョフ最後の遺言』上下(1975・河出書房新社) ▽R・メドベージェフ、Zh・メドベージェフ著、下斗米伸夫訳『フルシチョフ権力の時代』(1980・御茶の水書房)』

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世界大百科事典内のフルシチョフの言及

【スターリン批判】より

…56年2月の第20回共産党大会においてはミコヤンがスターリンに対する個人崇拝を批判した。特に第一書記フルシチョフは,秘密報告として知られる報告〈個人崇拝とその結果について〉を行った。それは(1)スターリンによる党規範の破壊と,忠実な幹部の粛清,(2)特に1941年6月の独ソ戦開始期の外交・戦争指導の誤り,(3)多くの無実の人々に対するテロル,といった内容をもっていた。…

【ソビエト連邦】より

…しかし,その偏執狂的な警戒心から政治局員にも疑いをかけ,ついに53年1月ユダヤ人医師団事件を引き起こした。
[フルシチョフ期]
 その緊張の中で,53年3月3日,スターリンは死去した。独裁者の死はソ連史に大きな変化を呼び起こすこととなった。…

【ソビエト連邦共産党】より

…戦後もジダーノフマレンコフにより,知識人や党幹部までが粛清されたが,53年のスターリンの死亡により,スターリン時代は終わった。
[スターリン批判以後]
 ベリヤ,マレンコフらのライバルを集団指導部から排除したフルシチョフ第一書記は,56年の第20回党大会の秘密報告でスターリン批判を行い,非スターリン化と民主化,農業問題の解決にのり出した。フルシチョフ時代にはスターリン時代への反省から,党内にも一定の民主化が導入され,(1)集団指導の強調と大衆路線,(2)党大会や中央委員会の定期的開催,(3)さらに60年代初めには党機構の農業・工業への分割と交替制がはかられた。…

【中ソ論争】より

…1956年のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判と平和共存・平和競争・平和移行の新路線の採択以来,中ソ両党間に意見の相違が生じ,57年11月の社会主義12ヵ国共産党・労働者党代表者会議,60年11月の世界81ヵ国共産党・労働者党代表者会議による調整と綱領的文書(モスクワ宣言,モスクワ声明)の採択も一時的な妥協に終わった。ソ連共産党はフルシチョフの主導のもと,アメリカとの平和共存を最優先の課題とし,平和革命(議会主義)の現実性を強調したのに対し,中共は暴力革命とプロレタリア独裁をマルクス・レーニン主義の核心とする立場から,ソビエト共産党およびこれに追随する党の路線を現代修正主義として批判した。 両党の論争は互いに名指しを避けつつも60年に公然化し,同年7月,ソ連が中国との経済技術援助協定を一方的に破棄して中国経済に大打撃を与えるなど,国家関係にまで波及した。…

【平和共存】より

…25年12月の第14回党大会でスターリンは,〈ソ連と資本主義諸国との間のいわゆる平和共存の長い時期〉が到来したと述べ,初めて〈平和共存〉に積極的な意味づけを与えた。しかし,この理論が確立されるのはスターリンの死後,ことにフルシチョフによってである。56年2月の第20回党大会で彼は,平和共存は戦術的なものではなく,〈ソビエト対外政策の基本原則〉であると述べるとともに,〈帝国主義が存在する以上戦争は不可避であるというマルクス=レーニン主義の命題〉は諸条件が根本的に変化した現在には適用できない,として平和共存の理論的根拠を明らかにした。…

【冷戦】より

…そして核戦争による共滅という認識は,しだいに米ソの指導者にも抱かれるようになっていった。〈われわれは十分におおきな国についていっているのだが,その国が攻撃されたとしても,その国は攻撃者に十分の報復を与える可能性をもつであろう〉(フルシチョフ,1960),〈男も女も子どもたちも,すべては,偶発的な事故や狂気によって,いつなんどき切られるかも知れないきわめて細い糸で吊られた,核というダモクレスの剣の下に生活している〉(ケネディ,1961)と米ソの指導者は述べている。そして指導者として核兵器の脅威について強調したのが,ゴルバチョフであった。…

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