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モスクワ モスクワ Moskva

5件 の用語解説(モスクワの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

モスクワ
モスクワ
Moskva

ロシアの首都。モスクワ州の中心都市。州政府ではなく,連邦政府の直轄に置かれている。英語ではモスコー Moscow。ヨーロッパロシア中部にあり,オカ川支流モスクワ川に臨む。年代記の 1147年項に初めて記され,13世紀後半にモスクワ公国の,14世紀半ばにモスクワ大公国の首都となった。

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百科事典マイペディアの解説

モスクワ

ロシア連邦の首都。ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央部,モスクワ川ボルガ川の支流)の両側にまたがる都市。行政上は,ロシア連邦を構成する特別市。政治・経済・文化の中心。
→関連項目ソビエト連邦モスクワオリンピック(1980年)ロシア

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デジタル大辞泉プラスの解説

モスクワ

《Moskva》旧ソ連(ロシア)海軍の巡洋艦モスクワヘリコプター巡洋艦。1967年就役。1996年退役。

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世界大百科事典 第2版の解説

モスクワ【Moskva】

ロシア連邦の首都。またモスクワ州の州都でもある。ロシア連邦の政治,経済,学術,文化,交通の中心であり,かつては社会主義圏全体の中枢でもあって,東欧社会主義諸国のCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)の本部がここに置かれていた。面積約1000km2,人口871万7000(1996)。
【地理】

[自然]
 ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央,北に広がる針葉樹林帯と南につづく混合樹林帯の境界上の北緯55゜45′,東経37゜42′に位置している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

モスクワ
もすくわ
Москва Moskva

ロシア連邦の首都。東ヨーロッパ平原の中部、ヨーロッパ・ロシア中央部を貫流するオカ川支流のモスクワ川が、蛇行しながら市内を流れる。英語名モスコーMoscow。交通の便と付近に手工業の原料産地が存在したこと、また北東ロシア諸都市の中心であったことなどの理由により発展した。市域面積994平方キロメートル、人口863万0400(2000推計)。平均標高120メートル、最高点は南西部の旧レーニン丘のボロビヨーブイ・ゴールイВоробьёвы Горы/Vorob' yov Gor(雀(すずめ)が丘)253メートルである。[中村泰三]

気候

比較的温和な大陸性気候を示し、年平均気温5.3℃、最寒月1月零下7.5℃、最暖月7月18.4℃である。気候の年変動は大きく、寒暖の移行も急激であるので、パリに比べれば居住条件はよくない。年降水量705ミリメートルで、夏と秋に雨が多い。積雪量は40センチメートルほどであるが、冬季除雪車が活躍するので、市内の道路交通は常時維持されている。[中村泰三]

住民

1970年の人口は717万2000であったが、その後25年ほどで150万人増加した。人口密度は1平方キロメートル当り約8700人で、ロシアの他の大都市に比べて高い。出生率は1000人当り8.0人、死亡率は16.9人(1995)で、以前に比べて自然減が大きい。1989年より死亡率が出生率を上回っている。したがって、流入人口により人口減を補ってきたが自然減を補えず、人口は1989年の約900万人以降、減少している。住民の80%強はロシア人で、ほかにウクライナ人、ユダヤ人、タタール人、ベラルーシ人など多民族が居住している。他方、市民1000人当りの婚姻は8.2人、離婚は4.6人(1995)で、離婚率が高い。また、人口構成は老齢人口比率が高く(年金生活者は1995年、230万人)、幼年人口が少ない。[中村泰三]

産業

就業者は約520万人であるが、1965~95年の30年間に、工業従事者の比重が50%減少し、かわって建設、商業、教育・文化・芸術、金融、保険業従事者などが大きく増えた。工業部門の従事者は、全就業者の18.0%で、次に商業16.0%、建設13.5%、科学研究とそのサービス部門10.8%、教育・文化・芸術9.6%、交通7.2%と続き(1995)、多機能都市になっている。
 工業生産はロシアの約5%を占めるといわれ、ロシアの工業生産の大中心地である。従業者は年々減少しているが、労働生産性は上昇している。従業者数からみて、主要工業部門は機械・金属加工業で、工業従事者の50.2%を占める。この部門は全工業部門のなかで成長率が非常に高い。次に軽工業14.0%、建築資材13.7%、食品7.5%、化学3.7%、建築資材13.7%と続くが(1992)、成長率が高いのは、機械工業を除けば印刷工業で、軽工業、食品工業生産は低下している。
 研究、デザインとその管理、サービスなどを扱う科学研究・サービス部門は、従業者が約60万人を占め、ロシアのこの分野の従事人口の4分の1以上が首都に集中していることになる。モスクワには各分野の科学アカデミーをはじめ1000近くの科学、デザインやそのインフォメーションに関する機関があり、バルジン記念鉄冶金(やきん)中央研究所、ギドロプロエクト(水力発電所の開発)、ギドロメズ(冶金工場の設計・デザイン)、ビニテイ(全ロシア科学・技術インフォメーション)などの諸機関が立地している。
 商業と金融に従事する人々も多くなっている。かつてこの分野は未発達であったが、市場経済への転換により、私営の小規模商業企業が著しく増加した。モスクワの人口1人当り商品販売高はロシアの大都市のなかで非常に高く、ロシア平均の2倍以上、サンクト・ペテルブルグより50%高い。1991年の体制変革後は外国製品の輸入が増大し、国産品の販売を圧迫している。スーパーマーケット方式の店舗やコンビニエンス・ストア形式の店が増えた。飲食店の数も以前に比べて増加しており、カフェー、ビュッフェを入れて8190(1993)を数える。その多くは企業、学校に付属する施設であるが、最近は独立経営の店が増えている。銀行は国営銀行以外に民間商業銀行の設立が認められて以来急増、モスクワにロシアの銀行の約40%が集中し(1996)大規模銀行が多い。[中村泰三]

交通

モスクワはロシアの大交通中心地で、四つの空港、10本の鉄道、1号から11号までの連邦道、三つの河港によりロシア各地や外国と結ばれている。モスクワ郊外にあるシェレメティエボ国際空港など四つの空港の旅客機の発着は頻繁で、ロシアの玄関として外国との連絡に重要な機能をもつのみならず、広大なロシア各地を結ぶうえで大きな役割を果たしている。鉄道も遠距離輸送に重要な役割をもっているが、近年は長距離よりもモスクワ近郊の都市や集落と連絡する役割が増え、通勤、レクリエーションなどに利用する人々が多くなっている。市内では乗客輸送に占める市電の重要度は低くなったが、かわって地下鉄が発達し、11路線総延長255キロメートル(1995)に達する。乗客輸送ではバスを抜いて全乗客の45%(1995)を地下鉄が運んでいる。バスは市内の乗客を運ぶうえでなお大きな比重を占めているほか、1960年代以降、近郊バスや遠距離バスの交通も発達している。市内に三つある河港はモスクワ内外の重要な物資の運搬にも、また旅客輸送の発着点としても利用されている。ここからボルガ川河口のアストラハンまで走る長大な航路も、モスクワ近郊の地点との間を結ぶ短距離の航路もあり、水中翼船が市内観光だけでなく近郊への航路にも就航している。[中村泰三]

教育・文化・観光

モスクワは学生の町でもある。モスクワ大学をはじめとして高等教育機関は80あり、学生数は1995年度45万人と以前より減少しているが、80年代の終わりごろから、私立大学や公立大学が設立され始めた。劇場数は61、美術館・博物館は106、図書館450を数える。6000人近い収容数をもつクレムリン大宮殿、ボリショイ劇場、マールイ劇場やクレムリン美術館(武器庫)、トレチャコフ美術館、プーシキン美術館や世界最大の規模を誇るロシア国立図書館(旧レーニン図書館)など、世界に知られた施設が多い。このほか、ロシア様式の歴史的建造物が集まるコロメンスコエなどが保存されて博物館などに利用され、壁に囲まれた15世紀の城塞(じょうさい)クレムリンの中にはウスペンスキー寺院、ブラゴベシチェンスキー寺院など、15、16世紀の寺院も多い。クレムリンの北東に隣接する「赤の広場」には、16世紀ロシアの代表的建築物であるワシリー大聖堂などがあり、内外の観光客が多数訪れる。年間の劇場観客数は830万人、美術館・博物館訪問者は3774万人を数える(1992)。[中村泰三]

緑地・住宅

市域の約3分の2の面積に建物が建ち、約20%が緑地である。1950年代後半以降の大量の住宅建設により、市境に近い縁辺部に大規模な団地が次々と形成され、景観に大きな変化をもたらした。第二次世界大戦前に建てられた住宅は全住宅面積の9%強にすぎなくなり、1970年代に建設された新しい住宅が3分の1を占めるようになった。それとともに高層住宅が増え、10階建て以上のアパートが全住宅面積の60%に近く、16階建て以上が20%(1995)になっている。その結果、水道、下水道、集中暖房設備が100%近く普及し、ガス設備が60%強となっている。[中村泰三]

モスクワ都市圏と都市計画

モスクワ市内は通常3地帯に分けられる。サドーボエ環状道路内が都心で、ここに行政、商業、文化施設が集中している。その外側の1960年までの市域が中間地帯で、クレムリンまで平均7.4キロメートルあり、工業・住宅地区と交通中心地(鉄道ターミナル)が混在しており、再開発が進み、常住人口の減少が著しい。第三の地帯はモスクワの新市域で、クレムリンまで平均14キロメートルあり、市の総面積のなかば以上を占めている。この地帯がモスクワの新しい住宅団地の造成地で、緑地も多い。ここまでが主要市域で、全長109キロメートルの高速環状自動車道が市域を境していたが、1986年より環状線外の若干の地区にも市域が広がった。ここから外に森林公園地帯(幅10~15キロメートル、面積1800平方キロメートル)があり、都市、集落が点在し、別荘もあり、150万人以上の人々が住んでいる。この外側に近郊地帯があり、モスクワ市境から50~70キロメートルの範囲内にある。この地域は約80の都市、町を含み、250万を超える人口を抱え、モスクワ市内への通勤地帯に入り、この地帯までをモスクワ・メガロポリス(モスクワ大都市圏)とよんでいる。
 モスクワの都市計画では土地利用の集約化、明確な機能区分、交通網の整備、環境の保全など種々の問題の解決に力が注がれている。また、モスクワだけでなく、モスクワ都市圏の整備も考慮して計画が進められている。しかし計画どおりにかならずしも進んでいないのは、モスクワの膨張を防ぐため早くから人口制限が行われてきたにもかかわらず、モスクワとその周辺への人口集中が計画を上回る速さで進んだことからもわかる。
 またそのほかに、工業部門での業種転換(先端技術部門の育成、公害を引きおこす工場の移転、軍需工場の民需製品生産工場への転換)、森林地帯で進む都市化の防止、大気汚染の著しい市域における環境悪化の改善、郊外でのレクリエーション、休養施設の確保と充実など、さまざまな問題の早急な実施が求められている。[中村泰三]

歴史

11世紀末にすでに相当規模の集落が存在していたことが知られているが、市名が年代記の記録上に最初に現れるのは1147年のことである。当時それはスズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの領地であったので、今日では彼が市の創始者とみなされている。
 モスクワの本格的な発展は、アレクサンドル・ネフスキー公の末子ダニールが1276年ごろここをモスクワ公国の首都とするに及んでのことである。公国は地理的利点と歴代諸公の巧妙な内外政策により急速に発展するが、モスクワ市の発展もそれと不可分に結び付いていた。すでに14世紀前半のイワン1世治世には、モスクワはウラジーミルにかわって北東ロシアの政治・宗教上の中心となった。14世紀後半、1238年より続いたキプチャク・ハン国(タタール)支配に対し、ロシア人の反タタール闘争が起こったが、モスクワはその中心的役割を果たすようになり、1380年にはモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いで初めてタタールの大軍を撃ち破った。
 15世紀後半のイワン3世治世下に、ロシアがキプチャク・ハン国から独立するとともに市の急速な発展が始まる。クレムリンが今日みられるような形になったのも、基本的には彼とその子ワシリー3世の治世下のことである。この時期、商工業の中心はクレムリンの東方に広がる地域で、大ポサードとよばれた。それは16世紀にはキタイ・ゴロドとよばれるようになるが、そのなかの「市場」(17世紀中葉から「赤の広場」とよばれるようになる)には多数の店舗が並び、活発なにぎわいをみせた。
 16世紀のモスクワは、外敵(とくにクリミア・タタール)の侵入に備えて堅固な防備を施された。クレムリンはいうまでもなく、キタイ・ゴロドも1535~38年、さらにその外側のベールイ・ゴロドも1586~93年に石の城壁で囲まれた(これは18世紀末から19世紀初めに撤去され、今日のブリワール環状道路となる)。さらに第三の外壁ゼムリャノイ・バール(「土塁」)が1591~92年につくられた。これは当時のモスクワの境界線でもあったが、19世紀前半に撤去され、今日サドーボエ環状道路となっている。町の周辺には要塞(ようさい)化された修道院(アンドロニコフ、ノボジェービチー、ドンスコイなど)が配置されていた。今日赤の広場の南端に独特な姿を見せているワシリー大聖堂もこのころイワン4世(雷帝)治世下に建立された。市はリューリク朝断絶後の動乱時代の1610~12年に、ポーランド軍によって占領され大きな被害を受けたが、ロマノフ朝成立後まもなく復興され、市域もゼムリャノイ・バールを越えて発展し、17世紀なかばには人口も20万に達した。
 ピョートル大帝治世の1712年、首都は新たに建設されたサンクト・ペテルブルグに移された。だがモスクワは第二の首都として依然として経済・文化の中心であり続けた。すでに18世紀初頭には一般市民のための学校教育の基礎が置かれ、1755年にはロシア最初の大学、モスクワ大学が創設された。最初の公共劇場が開設され、印刷新聞が発行されたのもこの地においてである。遷都後も18世紀末までの通算20年間にわたり、政府と中央機関の多くがこの地で活動した。市域も拡大し、市の境界は1742年に築かれた土塁カメル‐コレシスキー・バール(全長37キロメートル余)となった。
 19世紀に入ってもモスクワの重要性は衰えなかった。そのことは1812年にロシアに侵入したナポレオン軍が一路モスクワを目ざし、占領したことからもうかがえる。このときモスクワを襲った大火は1週間続き、全市の4分の3が失われた。侵入軍は39日後に撤退したが、それに先だってクレムリンの一部を爆破した。戦後ただちにモスクワ市建設委員会が発足し、モスクワは急速に復興した。クレムリンの西側を走るネグリンナヤ川が暗渠(あんきょ)となり、その上にアレクサンドロフスキー庭園ができたのはこのときのことである。ベールイ・ゴロドの城壁とゼムリャノイ・バールも撤去された。またボリショイ劇場(すでに前世紀に活動を始めていた)やマールイ劇場、調馬場(マネージ)なども建造された。
 市の居住条件も改善された。とくに公共交通の発達が顕著であった。1840年代には最初の公共交通機関である大型四輪馬車が、70年代には馬車鉄道が、99年には市街電車が走り始めた。人口も1827年には対ナポレオン戦争前の水準を超え(27万5000)、62年には31万7000となった。農奴解放(1861)後の人口増はさらに急で、97年には100万を超えた。人口の急増は資本主義発達期のモスクワの経済的・文化的発展の反映であったが、他方ひずみも出てきた。20世紀初頭において90%以上の家屋は木造の1ないし2階建てであったし、都市整備の恩恵を受けたのは中心部に住む人々だけであり、70%以上の住民は生活上の基本的な設備もない狭い住居にひしめいていた。
 モスクワは、ロシア革命が開始された1905年に続き、17年にもロシア革命の主要な舞台となった。同年の十月革命後、1918年3月11日、ソビエト政権はペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)からモスクワへ移り、モスクワはふたたび首都となった。内戦と干渉戦の危機を乗り越えたソビエト社会主義共和国連邦は、モスクワを拠点に社会主義建設に乗り出した。1940年には、モスクワの全工業生産は第一次世界大戦前(1913)のそれの21倍に達した(金属加工業は実に96倍であった)。1935年には地下鉄の建設が始められた。人口も増え、39年には454万に達した。第二次世界大戦(大祖国戦争)はソビエト国家に大きな被害をもたらした。ドイツ侵入軍はモスクワの西方数十キロメートル地点で撃退されたが、戦争による人的・物的損害は甚大であった。それだけに戦後の復興と発展は目覚ましかった。すでに1950年には、モスクワの工業生産高は戦前(1940)の2倍に達し、64年には4.9倍となり、文字どおり世界有数の大都市となって、今日に至っている。[栗生沢猛夫]
『レフ・コロドヌイ著、宮沢俊一訳『モスクワ物語』(1979・ナウカ) ▽B・A・ギリャロフスキー著、村手義治訳『帝政末期のモスクワ』(1985・中央公論社) ▽木村浩著『世界の都市の物語〈11〉/モスクワ』(1992・文芸春秋) ▽下斗米伸夫著『スターリンと都市モスクワ1931―34年』(1994・岩波書店)』

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世界大百科事典内のモスクワの言及

【第三ローマ論】より

…16世紀初頭におけるロシアの政治理論。モスクワを人類史上最後のキリスト教世界帝国の首都とするもので,プスコフの僧フィロフェイがワシーリー3世らモスクワ大公にあてた書簡のなかで表明された。彼によれば,ローマ帝国とビザンティン帝国(〈二つのローマ〉)は〈真の信仰〉から逸脱したために滅亡したが,モスクワはその後継国家として,世界を終末のときに至るまで支配する,という。…

【ワシーリー大聖堂】より

…モスクワ,赤の広場にある大聖堂。イワン4世がモンゴルに対する戦勝を記念して1555‐60年に建て,勝利の仲介者である聖母マリアに捧げた。…

※「モスクワ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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