枳根庄(読み)きねのしよう

日本歴史地名大系 「枳根庄」の解説

枳根庄
きねのしよう

今西いまにし付近にあった庄園。今西にはかつて式内社岐尼きね神社が鎮座していた。中世史料には多く枳禰庄と書かれる。平安末期には近江日吉社領であり、「吉記」承安四年(一一七四)九月八日条に「住吉社造宮日吉社領枳禰庄所課事」とみえ、この日、日吉社はさきに後白河法皇が参籠した際、当庄に住吉社(現住吉区)造営の所課を免除する旨の院宣を得たと訴えて、その特権を認められている。正元元年(一二五九)七月二七日の関東下知状案(多田神社文書)によれば、多田ただ(現兵庫県川西市多田神社)と枳根庄との間に山手役をめぐって争いが生じ、枳根庄の領家土御門宰相中将家の雑掌大和守仲景・公文僧月性と、多田院の雑掌光信とが相論を展開した。このとき、枳根庄が土御門家領とみえるのは、当庄が日吉社領から土御門家領に変化したことを意味するのか、あるいは本所が日吉社で土御門家が領家であったのかつまびらかでない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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