藤原道長の邸宅の一つであり,土御門京極殿,上東門第,京極殿とも呼ばれた。平安京の土御門大路南,京極大路西に所在し,東西1町,南北2町の地を占めた。この邸はもと土御門左大臣源雅信の邸であり,雅信の女倫子と道長が結婚したところから倫子の住む土御門殿に道長が同居し,道長の地位,権勢の上昇とともにその本邸として重要な位置を占めるようになった。道長の女彰子(一条天皇后,上東門院)の里御所に土御門殿が用いられ,彰子所生の後一条,後朱雀両天皇がこの邸で誕生している。1016年(長和5)7月に焼失し,18年(寛仁2)に新造された土御門殿は焼失前の〈古体の昔造〉(《栄花物語》)を一新し,諸国の受領に1間ずつ負担させ内外ともに人目を驚かす豪華なものであったという。同年10月には道長は宮廷へ入れた女3人のうち彰子が太皇太后,姸子(三条天皇后)が皇太后,そして威子が後一条天皇中宮になり三后冊立が実現し,新造直後の土御門殿へ後一条天皇,東宮の行幸を迎え,三后とともに祝賀行事を行い,道長の栄華の最盛時を謳歌した。寝殿を中心に,東対,西対,西北対,馬場殿,御堂,文殿が渡殿や廊でむすばれ,広い園池には中島が浮かび,橋を架し苑路を通じ,樹木で美々しくよそおわれ,摂関政期を代表する最高級邸宅であった。なお土御門殿とよばれる邸宅はこのほかにも里内裏の〈土御門南烏丸殿〉や藤原邦綱の〈土御門東洞院第〉がある。
執筆者:川上 貢
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安時代中期の邸宅で上東門第(じょうとうもんてい)、京極殿(きょうごくどの)ともいう。平安京左京1条4坊つまり高級住宅域に所在し、藤原道長の栄華の舞台となった邸宅。道長は源倫子(みなもとのりんし)との結婚により取得、当初は1町の広さであったものを南北2町に拡大した。一条天皇中宮の長女彰子(しょうし)、三条天皇中宮の次女妍子(けんし)ら倫子腹の4人の娘と彼女たちが産んだ後一条・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)の3天皇もこの家で生まれ、のちにはこの3天皇の里内裏(さとだいり)にもなった。隣家の火事で類焼した土御門殿は2年後の1018年(寛仁2)に受領(ずりょう)たちの奉仕で再建され、必要な家具調度の一切を美濃守源頼光が寄進した。その年の10月16日、後一条天皇(母は彰子)に入っていた女御の威子(いし)(三女。倫子腹)が中宮となり(太皇太后彰子、皇太后妍子、皇后威子と三后(さんこう)を道長は娘で独占)、その祝宴が新邸で行われた。皓々と照る満月を見ながら酔い気分の道長は「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ(『小右記』(しょうゆうき))。1週間後には三后と後一条天皇・東宮(とうぐう)(のちの後朱雀天皇)が顔をそろえ道長を喜ばせた。
[朧谷 寿]
『太田静六著『寝殿造の研究』(1987・吉川弘文館)』▽『朧谷寿著『平安貴族と邸第』(2000・吉川弘文館)』
京極殿・上東門第(じょうとうもんてい)とも。平安中期の平安京の邸宅。土御門大路南,京極大路西(左京1条4坊15・16町)に位置した。藤原道長の邸宅。元来は正室源倫子(りんし)の父左大臣源雅信の邸宅であった。道長の邸宅のうち最も中心的な存在で,後一条・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)各天皇の里内裏(さとだいり)としても利用された。1016年(長和5)焼亡したが,受領(ずりょう)に造営をわりあて,調度いっさいを伊予守源頼光が調進するなどただちに再建し,道長の権勢を印象づけた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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